ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

バクシーシ(施し)と資本主義

2010年11月12日 | 思考法・発想法
IT系の、特にB向けのIT系の記事を書いているITProにちょっと興味深い記事が載っていて、その中で気になった言葉を検索して、そしてたどり着いた記事を読み、うん、何となくまとまりも無いまま書いてみたい。

その言葉は「バクシーシ」。

この言葉に初めて出会ったのは沢木耕太郎の「深夜急行」だったか、藤原新也だったかの本だったか。当時は特に深い感慨もなかったけれど、こうして「バクシーシ」に関しての2つの記事を読むといろいろ考えさせられる。

バングラデシュで“バクシーシ”に困惑、ネットは“自立”を促せるか? - 海外現地ルポ@ネットワーク:ITpro
バクシーシのこころ | シルバーアクセサリークロマニヨン

インド、バングラデシュをはじめ中東・東南アジアにかけて「バクシーシ」という習慣があるそうだ。

バクシーンとは一種の「お布施」「施し」のようなもので、「余裕ある者が貧しい者に金品を与え」、それによって与えた者は「徳」を得るとされる。また与えられる方も与えた側への功徳に貢献するため、「「ありがたくいただく」というより「当然もらってあげる」という感覚に近い」らしい。

インドや東南アジアへり旅行経験がないので、こうしたバクシーシを体験したことはないのだけれど、異国からの旅行者からするとこの習慣はなかなか大変なものらしい。それはそうだ。日本でも「物乞い」というのはいないわけではないが、そんなに頻繁に見かけるものではない。まして日本の物乞いはどちらかというとひっそりと施しを待っている。

しかしこのバクシーシを求める人々はどうもそんなイメージではないらしい。金持ちに功徳に協力しているのだから、積極的に仕掛けてきたり、また実にあっけらかんとしているらしい。慣れていない旅行者はこうした行為にも、行為のもつ意味合いにも戸惑いを隠せない。

こうした「バクシーシ」という習慣・制度は、ある意味富の再分配機能を担っているともいえる。日々生活を支える小さな金額かもしれないが、それによって救われている人々も多いのだろう。しかしITProの記事を読むと、「バクシーシは地域古来の階層制度の解消を難しくしている」という。

「富裕層は喜捨さえしていれば周囲の反感を買わずに富を集中できる。一方で低・中所得者層は何もしなくても、バクシーシに頼ることで最低限の生活を確保できる。こうした社会システムが貧富の格差を温存してきた」のであり、それはバングラデッシュに多額の投資が集まる中、首都ダッカの限られた階層のみが恩恵をこうむることにつながっている。

バングディッシュが真に発展するためには、「“もらうだけ”ではない個々の人の自立」が必要であり、自立が発展を促し、発展が自立の機会を増やす。インターネットの普及は彼らに自立の機会をあたえるだろう、この記事ではそう結んでいる。

このことに異論はない。ただもう1つの記事、「バクシーシのこころ」を読むと小さな違和感がわいてくる。

この記事では、作者のインドでのバクシーシの体験を内省的に書かれているのだけれど、その中でバクシーンに関してのあるエッセイが紹介されている。ちょっと長いけれどそのまま引用させてもらうと、

 それは欧米人の筆者がインドを旅したときのことだと思う。
 インドのどこかの空港に来たはいいが、筆者に何かのトラブルが起きてしまう。
 トラブルといっても命に関わるものではなく、ちょっとしたものだったと思う。
 その時に通り掛かった、インド人の紳士が、筆者を助けて問題は解決した。
 筆者はその紳士に何かお礼がしたいと言うが、紳士は丁寧に断って、こう言った。

 『あなたが私にお礼をする必要はありません。
 もしあなたが、私のちょっとした親切に感謝の念を抱いたのなら、あなたも誰か身の回りの困っている人に、同じようにちょっとした親切を施してください。
 いや、別にお金をあげてくれとかそういう意味ではないです。
 自分のできる範囲で、ささいな親切を施してくれればそれで結構です。
 そうして、私からあなたへと渡った親切が、あなたから別の人へ、そしてその人からまた別に人へと、世界中に広がっていくでしょうから。
 それをインドではバクシーシといいます。
 それではよい旅を。』

ここにはこの「バクシーシ」を行う者の「心持ち」が描かれている。そもそもの原点とはこの「心持ち」なのだろう。

しかし前述の記事にあったように、俯瞰して社会システムの1つとして「バクシーシ」を眺めた時、これが「貧困を固定化」させる制度として存在する。こうしたものは改善されるべきものだろう。貧困は解決されるべきだし、そのための社会福祉システムは必要だろう。そのためには個人が自立する機会を必要だし、経済発展も求められる。

このことに異論はない。ただどうなのだろう。その結果できあがる社会制度や資本主義システムの浸透の結果、この「バクシーシ」の「心持ち」は残るのだろうか。

個人の自立は時に社会の紐帯やコミュニティのつながり、互いに支えあう心を喪失させる。国家による社会福祉制度は誰が誰を支えているのかが見えないままに、匿名の富の再分配を実施する。そこに感謝の念はあるだろうか。資本主義とは個人による富の所有を制度化したものであり、私的利潤の追求こそが目的となる。持つ者はより求め、持たざるものはさらに置いていかれる。

僕らは一体何を得て、何を失ったのだろう。


深夜特急〈1〉香港・マカオ  / 沢木耕太郎



メメント・モリ  死を想え / 藤原新也




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