ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「つながり・同期・メタデータ」東浩紀が捉えたネット社会

2007年11月10日 | 読書
東浩紀氏がこれまでのエンジニアの言葉とも違う、またマーケティングの言葉とも違う(ほとんど役に立たないであろう)「人文系」の立場からネット分析を行ったエッセイを書いている。「動物化するポストモダン」「ゲーム的リアリズムの誕生」など、所謂ニューアカおよびそれ以降とはちょっと違った感覚で物事を捉えているな、と思っていたら何のことはない、同年代か。なるほどね。

席巻する「つながりの社会性」・人文系が語るネット(上):IT-PLUS
「擬似同期」型メディアの登場・人文系が語るネット(中):IT-PLUS
「メタデータ」が主役のコンテンツ消費・人文系が語るネット(下):IT-PLUS

「動物化するポストモダン」「ゲーム的リアリズムの誕生」自体は抽象度が高かったり、RPGやキャラクター小説に対して興味がない人にはピンとこないものだったりするのだけれど、この3回にわたって書かれたエッセイは、なるほどうまく今のネットに存在する「感覚」をうまく捉えているのではないか。

東氏は今のネットの状況を人文的な観点から、「つながり」「同期」「メタデータ」という3っのキーワードから解き明かそうとしている。

まずは「つながり」というものに対して、1980年代までを「資本やマスメディアといった擬似的な超越者がつねに価値体系を再生産し、消費者=視聴者がその他者のまなざしを内面化」した時代であるとした上で、90年代以降を「仲間内の小さなコミュニケーション、しかも「おれら、いまコミュニケーションしているよね」という純粋な事実性だけが突出して欲望され」た時代であるとして、つながりの社会性」と位置づけている。

確かに80年代のまだバブル華やかざりし時代には「トレンディ・ドラマ」という言葉が存在し、誰もがW浅野(浅野温子と浅野ゆう子)のような生活に憧れていたことを思えば、マスコミの作り上げた価値体系を内面化していたということは理解できるだろう。それに比べて90年代以降というのは、インターネット・携帯電話・メールが発達した時代であり、交わされる内容ではなく、今、「コミュニケーションをしている」ということが友達の証であり、重視されている。

ネットではこうした「つながり感」(ここでいう「つながりの社会性」)が大事というのは、まぁ、ネットをしている人ならだれでも何となくわかる感覚だろう。しかし、現状のインターネットというのは非リアルタイムな仕組みであり、本来、こういった「つながり」、もう少しいうと「時間・場・空間の共有」には向いていないものだ。にもかかわらず、Twitterやニコニコ動画で起きている現象というのはある種の「共有感覚」だという。

「《客観的》な時間の流れから見れば、利用者の間のコミュニケーションは『非同期的』に行われているけれども、各ユーザーの《主観的》な時間の流れにおいて、あたかも『同期的』なコミュニケーションがなされているかのような錯覚を与える」。これが擬似「同期」性である。

これら「擬似同期性」という問題。あるいは僕が使っている言葉でいうと「あいまいな時間感覚」という問題は何もTwitterやニコニコ動画だけではなく、BLOGやSNSでも見られる要素だし、古くは2ちゃんねるなどのBBSサービスやメッセンジャー、メールなどでもそうした要素は持っている。

現在が特に「つながり感」を求める時代だとした上で、「2ちゃんねるの「祭り」、ブログの「炎上」のような独特の現象が生まれてきたのは、ユーザーが、そのような共感の欠如を本能的に埋め合わせようとしてきたから」であり、Web2.0的なソーシャルサービスが人気なのは、「個人的で非同期的な、言ってみれば「孤独」な習慣に、集団的で同期的に行われているかのような幻想(みなが一緒に同じ話題のページを読んでいるという幻想)を与えるもの」と東氏はいう。

そうしてこうした状況の行き着く先にあるのが、「コンテンツ」を消費することではなく、本来コンテンツに紐づくはずの「メタデータ」を消費する社会だという。ここでいうメタデータとは、通常のシステム的な意味合いのそれよりももう少し広く捉えられており、「タグ」や「コメント」というような、ユーザーが随時、そのコンテンツに対して付与していく情報が含まれている。そして今「コンテンツ消費」からの転換が図られているのはこのユーザー同士が共有・生成しあうことのできる「コメント」などが駆動力になっているという。

「このようなメタデータ/メタコンテンツへの依存は、現在のネット、とりわけ日本のネットにおいては、前述の「非同期性」によって切り離されたユーザーたちに、ふたたび「つながり」を与える役割を果たしている」。つまりこうした「メタデータ」(特にコメント)を投稿・閲覧することで、ユーザー同士があたかも一緒に同じものを楽しんでいるかのうに、擬似的に「場の共有感覚(擬似同期性)」を生み出しているのだ。

YouTubeとニコ動を比べてもらうとよくわかるのだが、YouTubeはユーザーが投稿できるという意味でソーシャルなサービスではあるものの、まだ「コンテンツ」を手軽に楽しむためのツールである。これに比べて、ニコ動は、「2ちゃんねる」の実況板やYoutube板の経験を踏まえて、あくまで「場の共有感覚」を楽しむものだ。

事実、ニコ動の開発者の1人・戀塚さんは「ニコニコ動画の人気の秘密は「みんながいろんな手段で少しずつ参加できる」こと」とした上で、「コメントはニコニコ動画のメインコンテンツで“キモ”。思ったことを思ったタイミングで投稿できるよう設計した」としている。そのために、「(1)プレーヤーの画面サイズ、(2)コメント欄の位置、(3)コメントが流れるスピード、(4)コメントと動画の対応――それぞれで細かく調整」されており、弾幕モードのように「みんなで盛り上がっている感じを出すために採用した」という機能も付与されている。

開発者が明かす「ニコニコ動画」人気の“キモ” - ITmedia News

ここには、既に「コンテンツ」そのものをどう「適切に」「高品質で」みせるか、といった意識はない。あくまで「場の共有」であり、「コミュニケーション」こそが大事なのだ。

こうした状況を人文系の視点では、深刻な問題を抱えた社会空間として捉えられるという。

「ユーザーは自分の好みのコンテンツにしかアクセスしなくなるし(コミュニティーの分断の問題)、そのアクセスもアーキテクチャー頼みになってしまうし(アーキテクチャーの権力の問題)、さらにはメタコンテンツばかりを消費して肝心のコンテンツには関心を向けなくなってしまうおそれがあるからだ(コミュニケーション志向メディアの台頭の問題)」

事実、これらの問題は東氏だけが捉えているわけではない。多少、使われている用語に違いがあるはいえ、携帯も含めたネット時代の社会的な課題としてこうした問題意識は幾人にもよって解説されているし、僕なども感じている。

ただし、あわせて考えなければならない問題として、90年代以降のインターネット・携帯電話・メールといったツールの登場とコミュニケーション方法の変化があったから、こうした「コミュニケーション消費型の社会」あるいは「ネタ消費」的な社会が生まれたのか、それに先立つ社会変化として「大きな物語」を求めない時代・倫理感や道徳、価値観が不在となった刹那的な消費社会への変節があり、それを補完する形でインターネットがこのように使われたのか、ということは整理する必要があるだろう。

ま、言ってみれば「ニワトリ-卵」の議論ではあるものの、ITツールの影響力をどう測るか、あるいは経済的下部構造(死語)の変化こそ先になったのではないかとも思えるのだ。

これらの課題について、別の機会にでも書いていきたいと思う。


カーニヴァル化する社会 / 鈴木 謙介:「祭り」の終わりに何があるのか



1 コメント

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パチスロ行くのはもう辞めた! (宮田)
2007-11-11 17:53:11
マンマン拝んでちょちょっていぢったらお汁と一緒に金もでた!!http://life-work.net/yourbest/569
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