残業代が出るわけでもなく、夏休み中にも関わらず終電ギリギリまで仕事をしているという話をしていたら、友人から「何でそんなに働くんや、責任感か?」と聞かれ、「う〜ん、『惰性』かな。あるいは『脅迫観念』に近いかも。」と応えていたのだけれど、この本にはその答えが書かれている。僕らが本当に求めているわけでもなく、ただ退屈を埋めるかの如く「ハイテンション」で仕事を続ける理由と、「2ちゃんねる」に見られるような異様な「祭り」状態との類似性を紐解きつつ、社会システムそのものが、かっての自立した「市民」を前提としたモデルから、「自己」を喪失し刹那的な(ハイテンションに)消費していく「社会」へと変質しつつあることを説く。多少、抽象性が高く事前の知識を必要とはするものの、自分の生活に当てはめてみれば何となく思い当たる、そんな感じの一冊。

まぁ、もともとが「そこに『意味』などなく、ただ『意味』を作り出しているだけ」というスタンスだったりするので、自覚的に「テンション」を高めていところはあったのだけれど、なるほど、具体的な「やりたいこと」の不在のためゆえに、「『漠然としたやりたいこと』へ向けてテンションを高めて」いかねばならないのは今の時代に共通のものということか。
かっては「働く」ということは、「やりたいこと」を選択することではなかったのだろう。それが「豊かな社会」の中で、親は自分達のできなかった「労働」=「やりたいこと」を子供たちに求め、あるいはそれまでのモラトリアム期間を許容する。しかし「A」と「B」のどちらがいい?と問われるのならともかくも、全ての中から自分で選択しろと言われても、正直、「やりたいこと」などそう簡単に決めれない。ましてそこに確立された「自己」があるのならともかく、現在は「自己」を必要としない時代だ。
かってフーコーが「パノプティコン(一望監視装置)」として評したように、「近代」という時代は人が個人の内面に「倫理感」や「道徳」、「在るべき姿」を描き、それに従って自らの生き方を規定していた時代だ。必然的に自らに設定された「在るべき自己」と「現実の自己」との間の反復(内省)によって、「自己」像は描かれていったのだろう。しかし現在はちがう。内奥に「在るべき姿」があるわけでなく、むしろ外部からの関係によって、刹那に演じられる「自己」があるだけだ。そこでは瞬間、瞬間の「祭り」としてただ消費されていくだけなのだ。
著書である鈴木謙介氏は、その際にかっての自己の内奥への問いかけの代わりに、現在では「外部のデータベース」への問いかけが行われている、と指摘する。しかしここでいうデータベースとは何だろうか?例えば、amazonで欲しい本を見つけた時、それは本当に自らが欲した本だったのか。単純に同じようなプロファイルの人物が選択した本をamazonがリコメンドし、それに反応しただけではなかったか。あるいは、現在のマーケティング手法の成熟により作り上げられた商品を、特定のセグメントに対して発せられたCMを見たために、その商品を欲しいと思ったのではないか。
そうした内なる「自己」を見つめることなく、「外部のデータベース」の参照によって自らを形づくってきた現代人にとっては、そもそも刹那を生きることしか許されていないのだ。
さらに鈴木氏は、情報化の進展はそうした「マスメディア」の退潮を招き、かわりにインターネットと携帯の発達によって個人が直接結びつく(2ちゃんねる「祭り」のような)「ネタ消費」的な在り方をもたらしたのだとする。その瞬間、その場にて一瞬盛り上がりがあればいいのだ。
では僕らは、そうした社会でどのように生きていけばいいのだろう。鈴木氏は「べき論」ではなく、「いかにしてあるか」を問うべきだと言う。しかし統合された「自己」を持たずただ刹那に生きるという在り方を分析したとして、その先には何があるのだろうか。
結局、この本の読後感として、小難しく分析した割には何のメッセージ性も感じないのはこの姿勢にあるのだろう。オレンジ・レンジや大塚愛でも聞きながら騒ぎまくろう!と言うわけでもなく、狩撫麻礼が「迷走王 ボーダー」で示したようにシステムに回収されないためには徹底した「無為」の実践しかないのだというわけでもなく、新しい「倫理」や「価値観」を示すわけでもない。結局、ただの解釈だけが示され、そこには何もないのだ。
と、もう1つ。これらの認識について共感しつつも、BLOGやSNSのネットワークの中では「偶発的な関係」と「消費的な繋がり」だけでは終わらない新しい「関係性」も誕生しつつあるのではないか。それは確かに「身体」から解放されたネットワークであるかもしれないが、必ずしもその場の「盛り上がり」だけで完結しない。できればそうした新しい可能性についても言及してほしいと思う。
カーニヴァル化する社会 / 鈴木 謙介


まぁ、もともとが「そこに『意味』などなく、ただ『意味』を作り出しているだけ」というスタンスだったりするので、自覚的に「テンション」を高めていところはあったのだけれど、なるほど、具体的な「やりたいこと」の不在のためゆえに、「『漠然としたやりたいこと』へ向けてテンションを高めて」いかねばならないのは今の時代に共通のものということか。
かっては「働く」ということは、「やりたいこと」を選択することではなかったのだろう。それが「豊かな社会」の中で、親は自分達のできなかった「労働」=「やりたいこと」を子供たちに求め、あるいはそれまでのモラトリアム期間を許容する。しかし「A」と「B」のどちらがいい?と問われるのならともかくも、全ての中から自分で選択しろと言われても、正直、「やりたいこと」などそう簡単に決めれない。ましてそこに確立された「自己」があるのならともかく、現在は「自己」を必要としない時代だ。
かってフーコーが「パノプティコン(一望監視装置)」として評したように、「近代」という時代は人が個人の内面に「倫理感」や「道徳」、「在るべき姿」を描き、それに従って自らの生き方を規定していた時代だ。必然的に自らに設定された「在るべき自己」と「現実の自己」との間の反復(内省)によって、「自己」像は描かれていったのだろう。しかし現在はちがう。内奥に「在るべき姿」があるわけでなく、むしろ外部からの関係によって、刹那に演じられる「自己」があるだけだ。そこでは瞬間、瞬間の「祭り」としてただ消費されていくだけなのだ。
著書である鈴木謙介氏は、その際にかっての自己の内奥への問いかけの代わりに、現在では「外部のデータベース」への問いかけが行われている、と指摘する。しかしここでいうデータベースとは何だろうか?例えば、amazonで欲しい本を見つけた時、それは本当に自らが欲した本だったのか。単純に同じようなプロファイルの人物が選択した本をamazonがリコメンドし、それに反応しただけではなかったか。あるいは、現在のマーケティング手法の成熟により作り上げられた商品を、特定のセグメントに対して発せられたCMを見たために、その商品を欲しいと思ったのではないか。
そうした内なる「自己」を見つめることなく、「外部のデータベース」の参照によって自らを形づくってきた現代人にとっては、そもそも刹那を生きることしか許されていないのだ。
さらに鈴木氏は、情報化の進展はそうした「マスメディア」の退潮を招き、かわりにインターネットと携帯の発達によって個人が直接結びつく(2ちゃんねる「祭り」のような)「ネタ消費」的な在り方をもたらしたのだとする。その瞬間、その場にて一瞬盛り上がりがあればいいのだ。
では僕らは、そうした社会でどのように生きていけばいいのだろう。鈴木氏は「べき論」ではなく、「いかにしてあるか」を問うべきだと言う。しかし統合された「自己」を持たずただ刹那に生きるという在り方を分析したとして、その先には何があるのだろうか。
結局、この本の読後感として、小難しく分析した割には何のメッセージ性も感じないのはこの姿勢にあるのだろう。オレンジ・レンジや大塚愛でも聞きながら騒ぎまくろう!と言うわけでもなく、狩撫麻礼が「迷走王 ボーダー」で示したようにシステムに回収されないためには徹底した「無為」の実践しかないのだというわけでもなく、新しい「倫理」や「価値観」を示すわけでもない。結局、ただの解釈だけが示され、そこには何もないのだ。
と、もう1つ。これらの認識について共感しつつも、BLOGやSNSのネットワークの中では「偶発的な関係」と「消費的な繋がり」だけでは終わらない新しい「関係性」も誕生しつつあるのではないか。それは確かに「身体」から解放されたネットワークであるかもしれないが、必ずしもその場の「盛り上がり」だけで完結しない。できればそうした新しい可能性についても言及してほしいと思う。
カーニヴァル化する社会 / 鈴木 謙介











