ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

どこでもドアで旅行に行くということ

2009年07月09日 | Weblog
急遽、金沢の方まで出かけることになって、そのときに感じたことの雑感。東京から金沢の方まで行こうと思うと、これが意外と遠く、路線検索などで調べてもらえば分かるとおり、1)羽田から小松空港までの「空」のルート、2)上野から越後湯沢を経由して富山を横断する「上越・ほくほく線」ルート、3)東京から東海道新幹線で米沢を経由して金沢へと向かう「東海道」ルートと、全然バラバラなルートがさほど時間も変わらないまま表示されるといった感じ。

普段なら、「上越・ほくほく線」ルートでのんびり行くんだけれど、時間の都合もあって飛行機で行くことに。飛行機で行くとなると、大雑把に分けると、自宅~浜松町~羽田空港~小松空港~金沢~目的地と5つに乗換えが必要なる。自宅から浜松町までは「通勤」と同じ感覚だし電車の中も混んでいる。浜松町~羽田空港は普段と違うとはいえ「通勤電車」の延長だし、乗っている時間もたいしたことがない。飛行機自体は乗っている時間は1時間ほどでのんびりしているというほどの時間もない。小松空港から金沢まではバスだし、その後のルートも必要最小限だ。自宅から4、5時間、約300kmも移動しするというのに、全く「旅」らしさを感じない。

同じくらいの時間がかかるというのに、電車と飛行機では全く違う感覚なのだ。

もちろんこれは移動手段でしかないといえば、その通り。少しでも時間の短いものの方がいいに決まっている。例えば旅行に行くとして、目的は現地で遊ぶことなのだから移動時間は短ければ短いほうがいい。そしてこの究極の形が「どこでもドア」だろう。

どこでもドア。子供の頃なら誰もが憧れたドラえもんの道具の一つ。これがあれば遅刻もないし、どこにだって一足飛びで行ける。じゃぁ、「どこでもドア」を使って旅行に行くとはどういうことだろう。

例えば家族でハワイに行くとする。

自宅で旅行道具を揃え、浮き輪を膨らませ、海パンを用意する。パスポートなど必要ない、遊び道具と何ならクーラーボックスにビールとお茶を詰め込んでいけばいい。ホテルがとれなければ夜は家に戻ってくればいい。荷物を用意したら玄関に行き、空港に向かうのではなく、そのまま「どこでもドア」の扉を開く。行って来まーす。その向こうはもう「ハワイ」だ。

「あ、コーヒーメーカーのスイッチが入ったままかも!」

そうだとしても大丈夫。ドアをくぐればあなたの家なのだから。

「旅」にとって移動はあくまで「手段」であるとするならば、そのもっとも合理的な姿は移動時間が「0」であことだろう。その結果、日常と「旅」という非日常との境界線は限りなく少ないほうがいい。しかしそれで本当にいいのだろうか。電車で移動する際のまとまった時間。たまっていた本を読む。仲間との駅弁を食べながらのおしゃべり。流れていく風景。物思いにふけってみることもあるだろう。そうした日常とも目的地で過ごす非日常の時間とも違う中間的な時間。そうしたもののも「旅」の魅力の1つではなかったのか。

しかし「現代」という時間は「合理的」であることを求めているのだろう。

話は変わって。「もちつき」をしなくなったのはいつからなのか。昔は親戚が集まって、あるいは学校や町内で「もちつき」が行われていた。「もちつき」を「餅」を食べるための手段だとするならば、今ならコンビニでパックにはいった切り餅を買ってくればことたりる。それでは「もちつき」は無駄な時間だったのか。

「手段」は「目的」ではない。ただ「目的」が全てでもない。電車による移動にしろ、もちつきにしろ、それが手段だとしてもその行為そのものが別の意味を持ちうるのだろう。そしてそれはそれだからこその魅力もあるのだ。

さてさて話は変わって、では「おもてなし」とは何だろう。もしそれをネットの世界で言われるように「パーソナライズ」だとするならば、「合理的」に考えればその通りだろう。何かを探すという目的があって、人は「検索」をする。だとするならばその目的を効率的に達成してあげることが「いいこと」だろう。ニュースサイトにアクセスする。その人が関心を持っている「ニュース」を表示することが彼にとって効能が高いだろう。彼が普段から興味を持っていることをレコメンドしてあげる、あるいは興味のある広告を表示する。彼にとっては関心のないコンテンツや広告を表示されるよりうれしいだろう。合理的に考えれば。

ではそもそも彼にその「関心」を生み出したのは何によってだろうか。合理的にその関心は生み出されたのだろうか。

現代というのは「合理的」であることを求めているのだろう。それゆえにネット業界でいうところの「おもてなし」も説得力をもつ。ただ忘れてならないのは、結局、「合理的」であることを求めているという時代背景があってのことであって、「ゆとり」を楽しむことが求められたとき、むしろ「偶有性」や「ゆらぎ」というものが求められるのだろう


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