「十三人の刺客」で武士道の欺瞞性を描いた三池崇史が、より直接的に武士道の空虚さを暴いた作品。何よりも市川海老蔵と役所広司の存在感が凄い1作。
【予告編】
【公式】映画「一命」予告-HD高画質-
【あらすじ】
戦国の世は終わり、平和が訪れたかのようにみえた江戸時代初頭、徳川の治世。その下では大名の御家取り潰しが相次ぎ、仕事も家もなくし生活に困った浪人たちの間で“狂言切腹”が流行していた。それは裕福な大名屋敷に押し掛け、庭先で切腹させてほしいと願い出ると、面倒を避けたい屋敷側から職や金銭がもらえるという都合のいいゆすりだった。そんなある日、名門・井伊家の門前に一人の侍が、切腹を願い出た。名は津雲半四郎(市川海老蔵)。家老・斎藤勘解由(役所広司)は、数ヶ月前にも同じように訪ねてきた若浪人・千々岩求女(瑛太)の、狂言切腹の顛末を語り始める。武士の命である刀を売り、竹光に変え、恥も外聞もなく切腹を願い出た若浪人の無様な最期を……。そして半四郎は、驚くべき真実を語り出すのだった……。(「Movie Walker」より)
【レビュー】
井伊家の門前に「切腹」を望むものが現れる。まだ年若い侍・千々岩求女だ。それをみた井伊家の家臣・沢潟や松崎らはこれを「狂言切腹」だと見なす。狂言切腹――金銭に困った浪人たちが、裕福な大名の門前で切腹を申し出て、それを諦めることと引き換えに「金銭」を強請るというもの。武士としての誇りさえもない。
名門・井伊家が狂言切腹などに屈するわけにはいかない。そう考えた斎藤勧解由ら井伊家の藩士は千々岩求女を1人の誇り高い武士として「礼」を尽くし、そのまま切腹へと導いていく。お茶と菓子を与え、風呂に入れ身を清めさし、武士として「逃げ道」を防いでいく。もちろん千々岩求女にその気などない。彼は妻と幼子の病を治すために、3両を工面する必要があったのだから。
しかし沢潟や松崎らは津雲を追い込み、木製の小刀で切腹を迫るのだった…
この作品の根底にあるのは、「武士社会」「武士道」というもの疑念だ。
この物語の主人公・津雲半四郎ももちろんそうした「武士道」、武士社会のもつ「形式」の世界に生きてきた。貧しくとも、武士としての誇りとともに清貧な生活を送り、求女と美穂を育ててきた。しかし求女と美穂の間に子供が産まれ、そうした「人」としての自然の喜びに触れ、子供たちのために生きていこうとする欲求が生まれていく。
求女の死をきっかけに、津雲にとっては「形式」によって成り立つ武士社会が実にくだらないことのように思えたのだろう。武士の命ともいえる「刀」を質に入れ、そのお金で薬や精のつく食材を手に入れようとし、あるいは道端に落ちた卵でさえもすすろうとする求女。その姿は「武士は食わねど高楊枝」といった見得や様式ではなく、家族のために必死で生きようとする姿がある。そうした姿を武士の社会では否定する。
「…ふとしためぐり合わせ次第。ともすれば、求女がそれへ座り、貴行が求女のような身の上になっていたかもしれん。」
しかし斉藤らには求女を思いやる心はない。彼らに大切なのは武士としての「面目」であり、それを守ることだ。武士が腹を切ると言えば、どんな理由があろうとも切らねばならないと考える。
それは、「髷」を切られただけで、その体面から藩邸に出廷できなくなり、あるいはそのために「切腹」させられる生き方でもある。家族のためではなく、「面目」「体面」「様式」のために生きていくことになる。そんな生き方と、家族のために「3両を譲ってくれ」と物乞いする生き方のどちらが本来の在り方なのか。
津雲は乱闘の最中、屋内にどうどうと据え付けられた「赤備え」の甲冑を見て、こうした武士の生きかたを喝破する。
「武士の面目とは人身を飾るだけのものと存じます」
斉藤はこう叫ぶ。
「乱心者めが!」
しかし狂っているのは、果たしてどちらなのか。
三池崇史は、武士社会の「形式美」や立ち回りの「姿」、物語という「型」を見事に描きながら、そうした「形式」の不自然さを指摘する。それは「十三人の刺客」がそうであったように、あるいは「藁の盾」の職業意識がそうであるように、そんな「型」にはまっていることが狂っているのだと言わんばかりに。
【評価】
総合:★★★★☆
映画らしい美しさ:★★★★☆
市川海老蔵ってやっぱ凄いわ!:★★★★★
---
一命 |プレミアム・エディション [Blu-ray]
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【レビュー】
井伊家の門前に「切腹」を望むものが現れる。まだ年若い侍・千々岩求女だ。それをみた井伊家の家臣・沢潟や松崎らはこれを「狂言切腹」だと見なす。狂言切腹――金銭に困った浪人たちが、裕福な大名の門前で切腹を申し出て、それを諦めることと引き換えに「金銭」を強請るというもの。武士としての誇りさえもない。
名門・井伊家が狂言切腹などに屈するわけにはいかない。そう考えた斎藤勧解由ら井伊家の藩士は千々岩求女を1人の誇り高い武士として「礼」を尽くし、そのまま切腹へと導いていく。お茶と菓子を与え、風呂に入れ身を清めさし、武士として「逃げ道」を防いでいく。もちろん千々岩求女にその気などない。彼は妻と幼子の病を治すために、3両を工面する必要があったのだから。
しかし沢潟や松崎らは津雲を追い込み、木製の小刀で切腹を迫るのだった…
この作品の根底にあるのは、「武士社会」「武士道」というもの疑念だ。
この物語の主人公・津雲半四郎ももちろんそうした「武士道」、武士社会のもつ「形式」の世界に生きてきた。貧しくとも、武士としての誇りとともに清貧な生活を送り、求女と美穂を育ててきた。しかし求女と美穂の間に子供が産まれ、そうした「人」としての自然の喜びに触れ、子供たちのために生きていこうとする欲求が生まれていく。
求女の死をきっかけに、津雲にとっては「形式」によって成り立つ武士社会が実にくだらないことのように思えたのだろう。武士の命ともいえる「刀」を質に入れ、そのお金で薬や精のつく食材を手に入れようとし、あるいは道端に落ちた卵でさえもすすろうとする求女。その姿は「武士は食わねど高楊枝」といった見得や様式ではなく、家族のために必死で生きようとする姿がある。そうした姿を武士の社会では否定する。
「…ふとしためぐり合わせ次第。ともすれば、求女がそれへ座り、貴行が求女のような身の上になっていたかもしれん。」
しかし斉藤らには求女を思いやる心はない。彼らに大切なのは武士としての「面目」であり、それを守ることだ。武士が腹を切ると言えば、どんな理由があろうとも切らねばならないと考える。
それは、「髷」を切られただけで、その体面から藩邸に出廷できなくなり、あるいはそのために「切腹」させられる生き方でもある。家族のためではなく、「面目」「体面」「様式」のために生きていくことになる。そんな生き方と、家族のために「3両を譲ってくれ」と物乞いする生き方のどちらが本来の在り方なのか。
津雲は乱闘の最中、屋内にどうどうと据え付けられた「赤備え」の甲冑を見て、こうした武士の生きかたを喝破する。
「武士の面目とは人身を飾るだけのものと存じます」
斉藤はこう叫ぶ。
「乱心者めが!」
しかし狂っているのは、果たしてどちらなのか。
三池崇史は、武士社会の「形式美」や立ち回りの「姿」、物語という「型」を見事に描きながら、そうした「形式」の不自然さを指摘する。それは「十三人の刺客」がそうであったように、あるいは「藁の盾」の職業意識がそうであるように、そんな「型」にはまっていることが狂っているのだと言わんばかりに。
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総合:★★★★☆
映画らしい美しさ:★★★★☆
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