基本的に仕事中の「ムダ」が嫌いだ。「ムダ」な作業、「ムダ」な気配り、「ムダ」な打ち合わせ、「ムダ」な提案…もちろん「ムダ」をすべて否定するつもりはない。例えば車でいうハンドルの「遊び」。あるいはブレスト中の「どうでもいい」会話。こうしたものは状況の変化に対応するために必要であったり、新しい何かを生み出すために必要なものだ。これらの「ムダ」は決して「ムダ」ではない。
これに対して「やること」が明確でそれに対してのアプローチがはっきりとしているなら、それをより効率的に実施することこそが望ましいと思う。
この価値観は結構はっきりしていて、いろいろなグッズ(鞄にしろ、スマホにしろ)を選ぶにしても、「使いやすさ」「必要性」といった要素が大事になる。「かわいい」とか「ブランド」という要素は関係なく、いかにムダを削ぎ落しているか、目的に合致しているかといった観点から判断してしまう。
閑話休題。
こうしたムダが嫌いではあるものの、営業をやっていと「ムダ」だからといって切り捨てられないこともある。どうみても勝ち目のない提案。不利な状況。巻き返しを図るための仕掛けをつくってみたものの、例えば価格面だったり、仕様面だったりで大きな差がついていたりすると、そこまで巻き返せるほどの効力はない。
「じゃぁ、撤退しますか」
かといって、その一言はなかなか言えない。この提案に頑張ってきたメンバーや協力してくれたSEや、お客さんの中で応援してくれた人々の「想い」を考えると、そんな風に簡単に諦めることはできない。仮に「ムダ」になる確率が高かったとしても、ギリギリまで「逆転」できないかと考えてしまう。
物事を合理的に考えることと、人を何かに駆り立てるモチベーションとは全く別物なのだろう。
こんなケースもある。
お客さんから発注をもらう。構築にあたって打ち合わせを行う中で、当初の予定とは別の方法でお客さんやベンダーと盛り上がる。仕様変更だ。しかし予算は限られている。今の予算の中で何とか無理くり帳尻を合わせようとする。一見、納期や仕様未確定のためにリスクは高まるかもしれない。
その一方で現場での協調関係は強化される。新たに「目標」がセットされたことで、「一緒に」創り上げていくという感覚、「場」の空気が生み出される。それはそれによってもたらされた「リスク」以上の何かをその場に与えることになる。
「合理的」に考えるならばこうしたことは決して得策ではない。不要な「リスク」を生み出すことになるし、ムダな作業も増えることになる。
しかしそうではないのだ。
結局のところ「合理的思考」や「分析」というものは過去から見た「現実」しか語れない。「未来」を生み出すのはそうしたものとは違う、現場の感覚や人の想いや信念やそういった「身体性」がともなったところに生まれるのだろう。
本当のリスクとは何か。本当の成功要因とは何か。いずれも現場から遠く離れた「合理的思考」「分析」からもたらされるものではないのだ。
これに対して「やること」が明確でそれに対してのアプローチがはっきりとしているなら、それをより効率的に実施することこそが望ましいと思う。
この価値観は結構はっきりしていて、いろいろなグッズ(鞄にしろ、スマホにしろ)を選ぶにしても、「使いやすさ」「必要性」といった要素が大事になる。「かわいい」とか「ブランド」という要素は関係なく、いかにムダを削ぎ落しているか、目的に合致しているかといった観点から判断してしまう。
閑話休題。
こうしたムダが嫌いではあるものの、営業をやっていと「ムダ」だからといって切り捨てられないこともある。どうみても勝ち目のない提案。不利な状況。巻き返しを図るための仕掛けをつくってみたものの、例えば価格面だったり、仕様面だったりで大きな差がついていたりすると、そこまで巻き返せるほどの効力はない。
「じゃぁ、撤退しますか」
かといって、その一言はなかなか言えない。この提案に頑張ってきたメンバーや協力してくれたSEや、お客さんの中で応援してくれた人々の「想い」を考えると、そんな風に簡単に諦めることはできない。仮に「ムダ」になる確率が高かったとしても、ギリギリまで「逆転」できないかと考えてしまう。
物事を合理的に考えることと、人を何かに駆り立てるモチベーションとは全く別物なのだろう。
こんなケースもある。
お客さんから発注をもらう。構築にあたって打ち合わせを行う中で、当初の予定とは別の方法でお客さんやベンダーと盛り上がる。仕様変更だ。しかし予算は限られている。今の予算の中で何とか無理くり帳尻を合わせようとする。一見、納期や仕様未確定のためにリスクは高まるかもしれない。
その一方で現場での協調関係は強化される。新たに「目標」がセットされたことで、「一緒に」創り上げていくという感覚、「場」の空気が生み出される。それはそれによってもたらされた「リスク」以上の何かをその場に与えることになる。
「合理的」に考えるならばこうしたことは決して得策ではない。不要な「リスク」を生み出すことになるし、ムダな作業も増えることになる。
しかしそうではないのだ。
結局のところ「合理的思考」や「分析」というものは過去から見た「現実」しか語れない。「未来」を生み出すのはそうしたものとは違う、現場の感覚や人の想いや信念やそういった「身体性」がともなったところに生まれるのだろう。
本当のリスクとは何か。本当の成功要因とは何か。いずれも現場から遠く離れた「合理的思考」「分析」からもたらされるものではないのだ。
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