梅田さんのBLOGの中で、鷲田小彌太さんの「学者の値打ち」という本が紹介されていた。「ジャーナリズムとアカデミズム」という対立項が「ビジネス・ジャーナルとジャーナル・アカデミー」という対立項に変わったのだという。そして前者の代表としても長谷川慶太郎、堺屋太一、大前研一、山本七平を並べ、後者(ジャーナル・アカデミー)の担い手として、森嶋通夫、佐和隆光、加藤尚武、岩井克人がいるという。
梅田望夫の「ビジネス・ジャーナル」と「ジャーナル・アカデミー」
正直、この本を読んでいないので、細かい定義などわからないけれど、長谷川慶太と並べられて、堺屋さんや大前さんは歯がゆいだろうなぁ。。
それはともかく、「ジャーナリズム」と「アカデミズム」という対立項が崩壊した理由は何故だろうか。
「ポストモダン」と呼ばれた70~80年代の思想運動は「真理」にたどり着くための「知のフレームワーク」を解体していった。「社会主義」といった政治イデオロギーはもちろん、「近代的合理主義」といったある意味、思想活動の根源さえも解体してしまった。それ以降、いくつかの刺激的な「キーワード」が現れつつもアカデミズム全体を巻き込むような動きにはならず、また新しい立脚点として構築されることはなかった。
その一方で様々な「知の技法」を利用した「現代」を切り取る作業=「解釈」は、「アカデミズム」と「サブカルチャー」の境界線をなし崩し的に消滅させた。雑誌「現代思想」が「ドゥルーズ・ガダリ」と同様に「押井守・宮崎駿」を語り、オウム真理教がアカデミズム用語で自らの正当性を語り始めるという事態にさえいたった。。
梅田さんのBLOGの中で、「学者の値打ち」からの引用として、「アカデミシャン固有のものといわれて、後生大事にされた文章なぞ、自称アカデミシャン(自家中毒患者)以外は、読まなくなった」とあったが、それまでの「アカデミズム」が単純に一部ニッチ層に閉じていったというだけでなく、アカデミズムがその思想的根拠を失い、(サブカルなどと同様)消費される「商品」として大衆化し、スポイルされていったという一面もあったのではないだろうか。
その一方、「社会主義」の崩壊/資本主義のグローバル化という動きの中で、歯止めとしての「理想」「理念」「倫理」というものを喪失した経済活動はおわりなき「競争」を繰り広げることとなる。時あたかも分水嶺の如く、「IT」、「バイオ」、「ナノ」といった領域に代表される「パラダイム転換」を引き起こす可能性を秘めた「新しい知」の発掘は巨大な富をもたらすこととなり、「自然科学の解明」という名の征服欲か、もしくは明るい守銭奴として「アカデミズム」と「経済活動」は結びつくこととなる。「産学連携」しかり、「ベンチャー企業」しかり。
そうした動きは何も「自然科学」の分野だけではない。「法」や「政治」といった「正義」を希求するよりも、商業活動を通じて「社会最適化」を実現するという言説が大手をふるい、直接自己の利益に結びつくことにこそ人々の興味は注がれることになる。それが一方ではMBAブームを生み出し、大前研一やコンサルティングファーム、マーケッターをスターに押し上げたといったいい。
「ジャーナリズム」と「アカデミズム」の間にはスタンスの違いはあったものの、そこには「社会的正義」「理想」「真理」の追求といった未来へ向かう意思とでも言うべき共通の土俵があった。それが現代では、より利益追求型で、より現代という「断片」を読み解く作業へと皆の期待が移行したと言える。
その上で、「現代」という時代を事後的に検証しようとしているものは「アカデミック・ジャーナリズム」に、より(一攫千金的に)不確実な未来を読み解こうとした者は「ビジネスジャーナリズム」に向かっていったのだ。
梅田望夫の「ビジネス・ジャーナル」と「ジャーナル・アカデミー」
正直、この本を読んでいないので、細かい定義などわからないけれど、長谷川慶太と並べられて、堺屋さんや大前さんは歯がゆいだろうなぁ。。
それはともかく、「ジャーナリズム」と「アカデミズム」という対立項が崩壊した理由は何故だろうか。
「ポストモダン」と呼ばれた70~80年代の思想運動は「真理」にたどり着くための「知のフレームワーク」を解体していった。「社会主義」といった政治イデオロギーはもちろん、「近代的合理主義」といったある意味、思想活動の根源さえも解体してしまった。それ以降、いくつかの刺激的な「キーワード」が現れつつもアカデミズム全体を巻き込むような動きにはならず、また新しい立脚点として構築されることはなかった。
その一方で様々な「知の技法」を利用した「現代」を切り取る作業=「解釈」は、「アカデミズム」と「サブカルチャー」の境界線をなし崩し的に消滅させた。雑誌「現代思想」が「ドゥルーズ・ガダリ」と同様に「押井守・宮崎駿」を語り、オウム真理教がアカデミズム用語で自らの正当性を語り始めるという事態にさえいたった。。
梅田さんのBLOGの中で、「学者の値打ち」からの引用として、「アカデミシャン固有のものといわれて、後生大事にされた文章なぞ、自称アカデミシャン(自家中毒患者)以外は、読まなくなった」とあったが、それまでの「アカデミズム」が単純に一部ニッチ層に閉じていったというだけでなく、アカデミズムがその思想的根拠を失い、(サブカルなどと同様)消費される「商品」として大衆化し、スポイルされていったという一面もあったのではないだろうか。
その一方、「社会主義」の崩壊/資本主義のグローバル化という動きの中で、歯止めとしての「理想」「理念」「倫理」というものを喪失した経済活動はおわりなき「競争」を繰り広げることとなる。時あたかも分水嶺の如く、「IT」、「バイオ」、「ナノ」といった領域に代表される「パラダイム転換」を引き起こす可能性を秘めた「新しい知」の発掘は巨大な富をもたらすこととなり、「自然科学の解明」という名の征服欲か、もしくは明るい守銭奴として「アカデミズム」と「経済活動」は結びつくこととなる。「産学連携」しかり、「ベンチャー企業」しかり。
そうした動きは何も「自然科学」の分野だけではない。「法」や「政治」といった「正義」を希求するよりも、商業活動を通じて「社会最適化」を実現するという言説が大手をふるい、直接自己の利益に結びつくことにこそ人々の興味は注がれることになる。それが一方ではMBAブームを生み出し、大前研一やコンサルティングファーム、マーケッターをスターに押し上げたといったいい。
「ジャーナリズム」と「アカデミズム」の間にはスタンスの違いはあったものの、そこには「社会的正義」「理想」「真理」の追求といった未来へ向かう意思とでも言うべき共通の土俵があった。それが現代では、より利益追求型で、より現代という「断片」を読み解く作業へと皆の期待が移行したと言える。
その上で、「現代」という時代を事後的に検証しようとしているものは「アカデミック・ジャーナリズム」に、より(一攫千金的に)不確実な未来を読み解こうとした者は「ビジネスジャーナリズム」に向かっていったのだ。
日本人は、文法的制約により、自己の基準を内容として保持できない。つまり、自分の意見を持つことが難しい。だから、他人を批判することもまた難しい。誰であっても、不得意なことをする時には、自信なく不安を伴うものである。長年の懸案も先送りと積み残しで過ごそうとする。不安なしで世の中のことを知りたい。日本の新聞がこの要求に応えている。こうしたことから、日本人の勉強も世の中のことを丸暗記することになる。だから、いつまでたっても、教育も初等教育の段階にとどまる。
403文字
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その根源を日本語の言語構造に求めれるという意見は興味深いです。
山本七平は、「日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条」の中で、以下のK氏の文章を引用している。
「今度の戦争は、日本は物量で負けた、物量さえあれば米兵等に絶対負けなかったと大部分の人はいっている。確かにそうであったかもしれんが、物量、物量と簡単にいうが、物量は人間の精神と力によって作られる物で物量の中には科学者の精神も農民、職工をはじめその国民の全精神が含まれている事を見落としている。こんな重大な事を見落としているのでは、物を作る事も勝つ事もとても出来ないだろう。」と。
日本人は勝負には力を入れるが、勝つことを目的として物量を合理的に配置することは苦手である。技術や勝負は現実構文の内容で組み立てられるが、戦勝計画は未来構文の内容である。そして、日本語には現実構文 (現在構文)はあるが、未来構文はない。日本人には、合理的な未来構文の内容に従って、現実の世界に物量を配置してゆくことが難しい。精神主義の日本人には精神がないということか。平和愛好の国民が、平和念仏主義に陥るのもこうした事情による。だから、この地球は英米の世の中になる。
465文字
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