ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

ドラえもんを買ってしまいました。。。

2004年07月06日 | ビジネス
まぁ、別に恥ずかしがる必要もないのだけれど、ついつい、「ドラえもん」を衝動買いしてしまった。ハハハ。恥ずかしがる必要はないんだけどね、だっていいものはいいんだし。。。

買ったのは「ドラえもん[感動編]」。これ、通常の「ドラえもん 第○巻」といった形だったら買わなかったと思う。じゃぁ何故買ってしまったのか。



当然、ドラえもん世代としては、「懐かしい」という気持ちはあっただろう。特に「さようなら、ドラえもん」なんて涙なしには読めなかった作品だし、「ぞうとおじさん」「タンポポ空を行く」も一度読んだことのある人なら絶対に覚えているような名作だ。しかしいい話だったから、という理由だけでは買わないだろう。

思うに、「懐かしさ」以外にも、①テーマごとに再パッケージングすることによって、子供が買うものとは別の商品群と位置付けることで、大人が買いやすくしている、②「感動編」ということばによるアピール(「名作集」というイメージ)、さらには③潜在的なシンプルな感動に対する期待というのがあるのではないかと思う。

大人を意識してというのは明らかで、表紙などのデザインはいたってシンプルなつくりで子供が喜ぶようなものではなく、本棚などに並んでいてもおかしくない体裁となっている。これはある意味、最近の文庫本系漫画や「あしたのジョー」「巨人の星」などの懐かし系のマンガが週刊で発売されたのと同じ流れにあるものだろう。

これに対してシンプルな感動に対する期待、というのは今、改めて読み直して思うのだが、最近の物語、テレビ、ドラマ、映画の感動作というのが非常に複雑な感情を必要な気がしており、それに対する「疲れ」「反動」といったものだろうか。もちろん例えば日常生活の中に潜む感情の機微を描いた作品や、様々な登場人物の複雑な感情の絡み合いを描いた作品というのはもちろん重要なことだ。しかし同時にそうしたものはそれぞれの登場人物の感情を同時に理解する必要があり、作品に対しての一定の距離感、批評的な視点が必要となる。

一方で「冬ソナ」にみられるような極端な展開と登場人物に対するナルシスト的な感情移入が必要な作品というのは、はっきり言えば「ついていけるか」「ついていけないか」の両極端でしかない。誰もが共感できるような物語ではないのだ。

「ドラえもん」は今や現代のおとぎ話といってもいいのだろう。30代以下であれば誰もが接したことのある作品。一部、江川達也のように「のび太(=現代人)の自立的成長を妨げる作品」という批難はあるにしても多くの人は単純にそのストーリーを愛している。複雑な感情処理も必要ない。難題に対してはドラえもんに助けられ、そしてやり過ぎればドジを踏むのび太の姿に共感すればいいのだ。


「いじわる」はあっても「悪意」はなく、特権的な力を持っても自己の利益だけを追求するわけでないそんな世界、そんな予定調和の中だからこそシンプルに感動できるのだ。

まぁ、とはいえ、本当、ドラえもんがいてくれたら、と思ういますね、単純に。

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