ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「シモーヌ」―アルパチーノは理想の役者か?

2004年07月04日 | 映画♪
「ガタカ」、「トゥルーマン・ショー」のアンドリュー・ニコルが監督、アルパチーノ主演の「シモーヌ」を見た。どちらかというと「トゥルーマン・ショー」に近いコメディで、実際の女優以上に人気が出てしまった「ヴァーチャル女優」がモチーフだ。




主演女優にも逃げられる落ち目監督ヴィクター(アル・パチーノ)は、映画を完成させるために、皆に内緒で主演女優をCGで作り上げてしまう。そうして誕生した女優 シモーヌは完璧な美貌と演技力で、一躍人気者に。シモーヌ人気のおかげでヴィクターの映画も大ヒット。本来なら"わがまま"な昨今の役者たちに「映画をつくるのは監督であり、役者は映画を活かすためにいる」ということを伝えておしまいにするはずだった「女優 シモーヌ」を止めるにやめれなくなる。やがてヴィクターは実在しないシモーヌに振り回され、シモーヌを消去することを考えるのだが…

個人的には「モーション・キャプチャ」を多用したところで、「肉体」のもつリアリティ、「感情」や「情念」「関係性」といったものはリアルな役者でしか演じられない、と思っているので、まぁ、ありえないだろうというのが正直な感想。映画としては傑作とは言わないまでも元は取れるかな、という感じ。

ただこの映画、「役者論」として見てみると非常におもしろい。

そもそも役者とは、原作者の想像力や脚本家の想像力、こと映画に関して言えば監督の想像力を具現化するための存在である。監督が考える作品イメージに対して忠実に再現することこそが求められ、作品以外の色、つまり「役者」個人の色はむしろ邪魔でしかない。しかし現実には、シモーネが言うようにマスコミによって役者のプライバシーは暴かれ、作品の役とは関係のないイメージが付与されている。例えば「海猿」で伊藤英明がどんなに「仙崎」を演じようと、「マジックマッシュルームでトラップした奴だ」と思ったりするということだ。

またスターとは聴衆の「希望」や「期待」を反映させた「写し鏡」であり、シモーヌ人気が示しすように、スターの「実体」が限りなく0に近づくことによって、聴衆のイメージは無限大・極大化することが可能になる。今の「ヨン様」フィーバーなどは典型的なこの例だろうし、「アイドルはうんこをしない」論などもこの文脈だ。

つまり役者にしろ、スターにしろ、人間的な「実体」が存在しないほうがいいのだ。その意味で「シモーヌ」はまさに理想的といえる。

しかし本当に面白いのは、そうした「役者無色論」を唱える役を、ハリウッドきっての個性派役者 アルパチーノが演じていることだ。

アルパチーノは作者や脚本家や映画監督のイメージを忠実に再現するような役者ではない。何を演じようと「アルパチーノ」は「アルパチーノ」であり、かつ「その役はこういうキャラクターでしかありえない」という存在として「魂」を吹き込まれるのだ。その強烈な個性と演技力と存在感で、作品から「役」を取り上げ、監督から奪い、観客を支配する。ロラン・バルトはテキスト論の中で、いったん出来上がった作品は作者の手から離れ(作者の「死」)、作品そのものからも離れ(作品の「死」)、読者さえも正確に作品を理解することはできない(読者の「死」)と言ったが、アルパチーノは全てを殺した上で燦然と輝くのである。

この映画を見た後、アルパチーノ以外のイメージのヴィクターを想像できるだろうか?

このことをわかった上で、アルパチーノにヴィクターを演じさせたのだとしたら、アンドリュー・ニコルはかなりの確信犯的にこの作品を作ったに違いない。もしかしたらこのような批評の対象となることさえもコメディの一部として考えているのかも知れない。



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