ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

起業家と組織人の胆力の違い

2012年10月21日 | ビジネス
今、何かと話題の佐野眞一さんがダイエーの元会長・中内功と枝肉商・ウエテル(上田照雄)について書いた文章の中に、中内功が新しくできたダイエーに視察に行った時の様子が書かれている。プロレスラーを思わせる屈強な男たちを引き連れて新店舗に現れた中内は、店頭で立ち止まり大きく息を吸い込むという。そこには当時では珍しい店内で焼きたてを提供する「パン屋」が存在し、そこからの焼きたての「パンの匂い」が数m離れた店頭にまで届かなければ、店内を改修させるのだという。

あるいは店頭に並べられている新鮮に見える「もやし」。しかしそこに古いものが並んでいれば、そのもやしを責任者の頭に投げつける。店内の鯛焼き屋にはあんこの量が少なくごまかさないかどうか、他の人間に見張らせる。

成功するためのこだわり。

そうした現場での徹底した「こだわり」がダイエーの成長を支えた背景にはあるのだろう。消費者の目の厳しさ・移り気さを熟知した上で、そこでごまかしは通用しないことを理解し、それを徹底させる。そうしなければ生き残れないことを起業家・中内は熟知していた。

こうした徹底さは例えば、スティーブ・ジョブズのこだわりとも相通ずるのかもしれない。

あらためて思うのだけれど、こうした「こだわり」や「徹底さ」は果たして組織の中で生きるものにとって可能だろうか。

もちろん起業家がよりビジネスの世界に全身全霊をかけていることは間違いないだろう。細部への「気づき」についても徹底度は違うかもしれない。しかし組織人の中にもそうした「気づき」については負けないものもいる。分業化が進んでいる以上、その弊害もあるけれど、それゆえのプロもいる。

しかしここで組織人の場合、その「徹底さ」を貫けるかどうかという問題がある。

例えば「パンの匂い」が届かないからといって、店舗の空気の流れを変えるように改装すれば当然、追加のコストもかかるし、営業開始日を変更しなければならなくなるかもしれない。そうなれば大きなロスになる。

起業家やその会社のオーナーであれば、その決断に対して、周囲も反対できないかもしれない。あるいは反対されたとしてもそれを押し切るだけの覚悟や権限もあるだろう。しかし組織の一員の場合はどうか。営業的なロスの責任を誰がとるのか、内装を設計した担当者の立場やその後の関係を考えた場合にそれを否定するような決断はできるのか、すでにチラシなどを準備していればそれも無駄になる、取引先との関係はどうか…仮にそのことが商売の成否を分ける分水嶺になるとしても、それは可能性の1つに過ぎず、そのためにリスクを負ってまで決断を下せるか。

特にそれがサラリーマン意識の強いトラディショナルな企業の場合どうだろう。そのようなリスクをとらず、事なきことと気遣いこそが出世の大きな要因になっていることだってある。そんな中で、そのようなリスクをとる人間は生まれるのだろうか、あるいは居場所はあるのだろうか。

やはり起業家として生きていく人間というのは、このあたりの胆力が違うのだろう。それは経営学やマーケティングの知識がいくら豊富であっても現場での「気づく」能力がなければいい経営者になれないのと同様、核心を知りそれを徹底するためならリスクを厭わぬ「胆力」がなければ商売を拡大していくことなどできない。

成熟した企業の限界というのは、優秀な人材がいるかどうかではなく、胆力のある人材が残っているかどうかなのかもしれない。


新 忘れられた日本人 / 佐野眞一


完本 カリスマ―中内功とダイエーの「戦後」/ 佐野眞一


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