goo blog サービス終了のお知らせ 

ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「24人のビリー・ミリガン」と我々を分かつもの

2005年02月08日 | 読書
人は理性だけでは行動できないし、常に1つの正しい倫理観を下に行動するものでもない。気のあう奴もいればあわないやつもいるし、好きなものもあれば嫌いなものもある。愛することと同じ理由で憎しみを抱き、大切にしているものだからこそ傷つけずにいられず、汚れたものの中に聖なるものを見つけ出す。死への強い欲求があるいは生きることを欲し、理性の名の下で暴力や狂気が爆発する。「人間は矛盾した宇宙をこの愚かな肉体の中に閉じ込めている――。」

しかしこうしたものの見方、人間の複雑性・多面性に対する理解というものも、ある意味、1つの共通の土壌―歴史性と記憶によって統合された「人格」の上に成り立っているものであって、語弊を恐れずに言えば、「私」がその時の状況や感情にあわせて様々な「仮面」を付けかえているといえる。

それに対し、この本の主人公 ビリー・ミリガンの中にいるのは分断された他者だ。基本人格であるビリーは長い眠りにつき、イギリス人の合理主義者アーサーをはじめ、憎悪の管理者レイゲン、口先の上手いアレンなど23の異なる人格が1つの肉体に共存することになる。そして基本人格ビリーや多くの人格は、他の人格が活動している時の記憶を一切持ちあわせていない。これは単純に1つの人格の中に多面的な要素を持つ、その時々にあわせて様々なペルソナ(仮面)をつけるといったものとは明らかに次元の異なる問題だろう。


24人のビリー・ミリガン―ある多重人格者の記録

果たしてこんなことがありえるのか。

文庫本のあとがきの中で香山リカさんは、日本人のこの本に対する反響の奥底には「私とビリーはどこが違うんだろう?」という自分探しの文脈に繋がっていたと指摘していた。しかしこのように考えた多くの人は決して「解離性同一性障害」いわゆる「多重人格」ではないし、「私」の中にある他者性、自分でも気付いていない「私」の別の一面について問いかけていたに過ぎない。僕もこうした理解に収束していただろう、実際にそうした人と出会うまでは。

我々は全く矛盾する多面的な要素を1つの人格で持ち合わせている。では逆にこうした矛盾を併せ持っているにも関わらず、「正常」と言われる状態でいられるのは何故であろうか。矛盾した考えや行動を平然と許容できるのは何故であろうか。あるいは整合性を保つために複数の人格が生じないのは何故だろうか。

この「差」こそ「正常」と呼ばれる人々と「解離性同一性障害」の人を分かつ一線なのだろう。

1つのアイデンティティを保持している僕等は、あらゆる要素を持ち合わせていたとしてもどこかでリミッターがついている。何かを欲しいと思ったからといって、闇雲にそれを求めたりはしない。道徳や倫理といった「内なる他者の視線」があり、それによって抑制される。あるいは自分自身にまつわる他者からのイメージやその関係性の中で求められている役割といったものが僕らの行動を抑制する。

「24人のビリー・ミリガン」の中でも述べられていたが、それぞれの人格に分裂していた時には個々人がそれぞれの特異な技術をもっていたが、それが統合状態である「教師」となると、単純にそれぞれの能力が足されたのではなく、技術的には分裂していた時に比べて劣ってしまったという。これはまさにリミッターが働いていることなのではないだろうか。

例えば企業の場合、営業部もあれば製造部門もあるし調達を行う購買部もある。それぞれの部門が自分達の能力を闇雲に追求するとすれば、企業体としてはどうなるだろうか。売る商品もコストや利益も考えず闇雲に商品を売りにいったり、ニーズの有無に関わらずひたすら商品を作りつづけたりすれば、企業としては立ち行かなくなる。それぞれの部門とそれを統括する部門が存在し、それらがそれぞれの役割分担を過不足なく果たすことで1つの企業体としてありうるのだ。

様々な矛盾を抱えつつもそれらを統合できるもの―それが記憶だったり歴史性だったり、他者との関係性だったりするのだろうが、そうしたものによって統合されていることで1つの人格足りうるのではないだろうか。

もちろん、これらのことは具体的に「解離性同一性障害」の発症要因ではない。そうなった理由、そうならざろうえない理由はともかくも、そうした他者としての人格も含めてやはり我々は1つの存在なのだろうと思う。





コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。