ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

満員電車で考えたこと。あるいは押し合いへしあいのコミュニケーションとアフォーダンス

2012年05月28日 | Weblog
朝の山手線。いつものことではあるけれど、上野から秋葉原間の乗車率はハンパない。問題はそれまでにどのポジションを確保するかということ。

朝のラッシュに縁のない人は分からないかもしれないが、この区間というのは、電車の側面に設置された座席の2列はもちろん、その座席の前に吊革をもって立つ2列に加えてその間の通路部分に2列もしくは3列の人が存在することになる。その間の2列もしくは3列というのは、運が良くなければ吊革さえもないわけで、かなり不安定な位置取りとなる。しかも荷物の位置取りが悪いと1列だけが押されているにもかかわらず、カバンなどの荷物が2列を押すといったこともある。

そんなわけで毎朝乗っている人の間では位置取りや荷物の持ち方に暗黙のルールが存在することになる。(それを理解していない人はかなり迷惑なのだ)

しかしこの日は上野からなだれ込んでくる人の量が尋常じゃない。そうした位置取りのルールを気にする間もなく電車の中に人が押し込まれてくる。で、そんなギュウギュウ詰めの状況の中でもそこに「押し合いへし合いのコミュニケーション」があるのだということに改めて気づいたので、ちょっとメモ。

人が乗ってくる電車の中では当然、既に乗っている人たちはどのように自分の場所を確保するかということが大事になる。見ず知らずの通勤客同士がそんな中で押し合いをするわけだから、もちろんそこには言葉による「会話」が存在するわけではない(そういう場合は大概喧嘩になる)。

しかし押す側と押される側の中では、その「接触」を通じて無言の「会話」が存在する。強く押した時に押された側がまだ詰められそうな場合は押し返し方がゆるく、その代わりに詰めてくれる。反対にもうこれ以上、奥に詰められない場合はその押し返し方がきつくなる。あるいはこれ以上奥には詰めないぞという意思がある場合は、断固とした意思を持って押し返す。

もちろんここには何かそうしたコミュニケーションをしようという意思を持って行っていることはないだろう。しかしそこには押す側と押される側との間に「アフォーダンス」と呼ばれるような「関係性」が存在することになる。

 アフォーダンス入門-知性はどこに生まれるか / 佐々木正人 - ビールを飲みながら考えてみた…


アフォーダンスというのは、僕らと環境との間で生まれる認知行為のこと。一般的に僕らは周囲の環境に対して自ら「理解」しようとすると考えるが、アフォーダンスという考え方ではそうではなく、環境が僕らに情報を与える(afford)という風に考える。例えばドアにノブが付いていれば、僕らはそこからこのドアはひくものだとと考えるが、それはドアノブからその様に理解するための情報が与えられているからだ。ドアノブをどのように使うか検討した結果ではない。

こうした電車の中での関係性も、押す側からすると押した瞬間の反応がある種のアフォーダンスの関係を引き起こしているといえる。こうした与えられた(afford)情報をいかに適切に汲み取れるか、こうしたことが実生活を過ごす上では必要な能力となる。

頭で考えるだけではなく、環境を察知する能力、状況を理解する能力も大事なのだろう。


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