ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「強敵」と書いて「とも(友)」と読む

2010年08月08日 | 思考法・発想法
仲里依紗主演の「日本人の知らない日本語」を見ていたらこんな台詞があった。

「告白」と書いて「ゆうき」と読む

まぁ、こんな読み方はさすがに無理がありすぎるけど、でもこれはこれで視聴者からすると言わんとすることが伝わってくる。実はこれって凄いことだと思う。「告白」と書いて「ゆうき」と読む。こんな台詞がなりたってしまう。英語や中国語でこんな状況ってありうるだろうか。

かって「北斗の拳」では「強敵(とも)よ!」という言葉遣いがあった。

ケンシロウがラオウに対し、「ラオウよ。おれにはあなたが最大の強敵(とも)だった」という台詞をはくわけだけれど、読み手はその台詞に「強敵(きょうてき)」とも「友」とも違うニュアンスを感じ取っている。単なる「強い敵」でもなく、友人や仲間でもない、あくまで倒すべき相手でありながらその過程でのみ分かり合える親密さ。そういったアンビバレンツな関係性を「強敵(とも)」という言葉遣いに表現されている。

記号論の世界では「シニフィアン(表現)」「シニフィエ(意味内容)」という概念がある。

例えば「海」というものを考えた時に、「海」という文字や読み方に対してその実体や内容は別なものとして捉える(ここでは便宜上「うみ」と表記)。実際にはこうした「海」という表現と「うみ」という実体が組み合わさって、物事は指し示されることになる。

何故、このように「記号表現」と「意味内容」」を分けて考えるかというと、こうすることで同じ「うみ」を認識するにしても、

日本人:「海」+「うみ」
アメリカ人:「sea」+「うみ」

といった表記の違いや

「海(漢字)」+「うみ」
「umi(発音)」+「うみ」

文字と音声の違いを超えて、同一の意味内容を理解することが可能になるからだ。

こうした記号論として考えた時、この「強敵」を「とも」と読む/読ませる表現は、2つの「シーニュ(シニファアンとシニフィエの組み合わせ)」をクロスオーバーさせることで新たに関係を生じさせたものだ。

シニフィアンとしての「強敵」とシニフィエとしての「敵」という意味。
シニフィアンとしての「とも」とシニフィエとしての「友・仲間」という意味

それら2つのシニフィアンを組み合わせることで、しかも「漢字(「強敵」)」と「読み(「とも」)」という2つのシニフィアンを組み合わせて表現することで、両義的な関係・感情を読者に対して一瞬のうちに理解させてしまったのだ。

これは表音文字であるアルファベットだけで成り立っている英語では表現しにくい方法論だ。「enemy」「a powerful enemy」だけでは「とも」というニュアンスは伝わらないし、「friend」では「敵」にならない。「rival」だとラオウに失礼だし、いずれにしろどちらか一方のニュアンスが強くなる。

日本語では、「漢字」という表意文字・表語文字の体系と「かな」という表音文字の体系を併用し、それをあたかも当たり前のように混交して使っている。今回もケンシロウとラオウの関係を「漢字」と「かな」の両方で同時に表現し、かつ本来であれば異なる意味をもつ「文字」を当てはめたところに生じたのだ。日本語ならではの「深み」というやつだろうか。

ただしこれらも文学や漫画といった「活字」だからできたもの。「友(とも)よー!」って近づいてきた人間にいきなり殴られたのではたまったものじゃない。そういう時は「敵だー!」と叫びながら追い回してもらわないとこちらも対応できないのだ。




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北斗の拳 / 原哲夫・武論尊


記号論への招待 (岩波新書)


現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)

1 コメント

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分かった!! (なぁの★)
2010-08-08 15:25:29
良く分かりました
有難うございます
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