ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

夏野語録もしくは多層化世界への助走

2008年08月03日 | ビジネス
鉄腕アトムやドラえもんは誕生していないけど、SF映画が未来の地図になっているのはまさしくその通り。「シュミラークル」なんて言葉は今では流行らないのかもしれないけれど、まさしく我々は誰かの想像した「物語」をなぞって新しい技術やライフスタイルを作り上げているのだろう。現実の「ニーズ」の延長ではなく、創造的飛躍がなければ新しいものは生まれないのだ。それはi-modeの父・夏野氏であったとしても同様なのだろう。

「今日は映画大会です」:未来のケータイの姿、ヒントはSF映画にあり――夏野氏(前編) - ITmedia +D モバイル
ケータイの未来を予測する5つのキーワード:今も未来も、ケータイに大事なのは“フツーに使える”こと――夏野氏(後編) (1/2) - ITmedia +D モバイル

「サービスを開発し、提供するにあたって“全体的に技術がどう進むのか”“今、まったくないものを、ユーザーがどのように受け入れるのか”を考えるときにヒントになったのがSF小説やSF映画だった」とのことで、その中でも「マイノリティ・リポート」の「バーチャルディスプレイ」がお気に入りのよう。

「今の携帯電話のサイズは、ディスプレイとキーボードの大きさで決まっていて、3インチのディスプレイを積もうと思うと、物理的に(携帯電話側に)3インチのエリアが必要になるから、この大きさになってしまう。必要なときだけ3インチ、14インチ、30インチに投射できれば、生活は一変する。今の日本の技術者は、いかにきれいな液晶にできるかを物理的なスクリーンサイズと同じ大きさで競っているが、“物理的な大きさと見ている大きさが全く同じスクリーン” というのは、どちらかといえば20世紀型の考え方」だとして、ケータイが大きな飛躍をするための可能性を示唆している。

例えばiPodが変えたものは何だろう。それまでも「音楽を持ち運べる」ということだけでいえば、「walkman」もあれば「MD」もあった。iPodがなしえたこと、それは「音楽を『圧倒的に』持ち運べる」ようになったということだ。それはそれまでのテープやMDやCDという容量的な「制約」を解き放ったといえる。同様に携帯電話の「モニター」という制約を解き放つことができたらどうなるだろう。

しかもケータイはネットワークにつながることが前提だ。「あちら側」のリソースを「こちら側」に中継するための装置/Gatewayだと捉えなおすなら、ケータイとは無限のリソースを手にすることになるだろう。そんな可能性を夏野さんは見ているのだろう。

「マイノリティ・リポート」のレビューでも書いたけれど、個人的には、あの映画の中で衝撃を受けたこととして、バーチャルディスプレイ上での情報の見出し方(広義の意味での「検索」手法)。プリコグの見た断片的な映像の束からアンダートンが必要な情報を引き出そうとするシーンで、例えば録画された時間順や場所といった整理された方法(広義の意味でのディレクトリ構造)で探すのではなく、バラバラになった情報の束を、体を使って、直感的に要/不要を切り分けていく。

対象が「映像」である以上、「文字」情報のように左脳的に整理された探し方ではなく、視覚という直感的な方法とそれに連動した体感的な検索方法にて、より探しやすく/探している感覚をもたらしつつ探すのだ。

特に日本人の技術者の場合、こうした直感的な要素を組み込むことが非常に下手なこともあり、そうした「使い方」の部分も映画は参考になるのではないかと思う。

また夏野さんは映画「ファイナルファンタジー」を引き合いに出し、「兵士の戦闘服に腕時計のようなものがあって、それを押すと8インチくらいの仮想ディスプレイとバーチャル操作ボタンが現れる。兵士は武器を構えたまま、ホルンやチューバを演奏するようなピストン操作で画面を操作する。これは卓越した未来予測で、将来のケータイのあり方として僕のイメージに一番近い」とのこと。夏野さん的にはケータイの物理的制約を越えるための技術として「仮想ディスプレイ」と「バーチャル操作ボタン」という風に捉えられたのだろうが、このバーチャルリアリティの技術は実際にはそれにとどまらない。

PhotoshopやCADを使ったことのある人ならわかると思うが、あれらのソフトは二次元的な画像や図面に対して、レイヤー構造を持つことで、透過的にいくつもの画像や図面を重ねることができる。もとになる「建築図面」があり、その上に「配管図面」や「電力配信」、「通信配線」の図面を重ね合わせるということが可能になる。しかも、必要に応じて、そのレイヤーを表示させないことにしたり、複数のレイヤーを重ねて表示したりということが可能になる。

バーチャルリアル技術によって、現実の世界にもレイヤー構造が可能になるとしたら――

ソファと壁しかない部屋にもかかわらず、あるレイヤーを表示すると巨大なスクリーンから映画が表示され、あるレイヤーに切り替えると部屋全体が海岸沿いの一角になる。あるいは公園の一角で誰かとキャッツボールをしたっていい(ボールを捕る触感でさえバーチャルリアルでは現実のものとなるのだ!)。壁にさえぶつからなければ、空間的な狭さにさえ気付かないかもしれない。

単に現実の世界にバーチャルな何かを持ち込むだけでなく、いずれは、バーチャルな世界を含めて「生きる世界」を多層化していくのかもしれない。そうした状況までを視野に入れたとき、果たして日本の技術者たちはついていけるのだろうか。

我々は、我々を取り巻く制約さえも越えれるのだということを再認識しなければならないのだ。


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