ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 / 東浩紀

2008年01月26日 | 読書
このところ日経IT PLUS「人文系が語るネット」や「東京から考える」で東浩紀さんづいていたこともあり、「動物化したポストモダン」を再読。この著自体は2001年に書かれたものであるが、今だからこそ、時代の変節を言い当てていたのだということがよくわかる。この著は、アニメやマンガ、萌え系、ギャルゲー・ノベルゲームなど所謂オタク文化を題材に、「大きな物語」消失後の人々の内的運動・ポストモダンの行動原理を描いた良著。今だからこそ読んでいない人にも読んでもらいたい一冊。





この著で東氏が言おうとしていることを要約するなら、70年代までの「大きな物語」が有効だった時代に対し、80年代はイデオロギーや「大きな物語」が消失し、その空白を埋めようとして生じた「物語」消費の時代となった。しかしポストモダンが全面化した90年代に入るとそうした「物語性」ではなく、深層にある情報(データベース)とその情報の組み合わせである「小さな物語」を消費するというデータベース・モデルに移行したということ。

では、70年代までを支配した行動原理・世界観とはどのようなものだったのか。

東氏は「一方には、私たちの意識に映る表層的な世界があり、他方にその表層を規定している深層=大きな物語」があり、70年代までの近代的世界観では「その深層の構造を明らかにする」ことが求められていたのだと語る。

例えば自分たちの身近にあった裕福な家庭と貧しい家庭。こうしたものもかってであればマルクスによる階級闘争に歴史の1断片として取り扱うこともできただろうし、それを克服するものとしての「共産主義」が信仰されただろう。あらゆる「小さな物語」は背景にある「大きな物語」の表象であり、常に「大きな物語」とつながっていたのだ。

しかしこうした「大きな物語」に対する信頼は、ベトナム戦争や共産主義国家の現実、あるいは「連合赤軍」の終焉など、70年代を通じて失墜していくことになる。

現実には「大きな物語」は凋落してしまたものの、とはいえ「大きな物語」を求める心性はそう簡単になくなるものではない。例えば79年から放送され未だに根強いファンを有する「機動戦士ガンダム」。この「ガンダム」のファンたちは単に「ガンダム」のストーリーを追いかけているだけではない。その背景に広がる「世界観」こそを求めており、それこそが《架空の》大きな物語として消費されたのだ。

こうした状況を大塚英志は「消費されているのは、1つ1つの<ドラマ>や<モノ>ではなく、その背後に隠れていたはずのシステムそのもの」だとし、このシステム=「(架空の)大きな物語」を消費するために、1つ1つの「小さな物語」=「1話」やそれぞれの「商品」を購入する様子を「物語消費」と呼んだ。これが80年代のスタイルとなった。

しかしこのモデルはポストモダンの本当の姿ではない。連合赤軍が「理想の時代」の終焉を告げたように「オウム事件」が「虚構の時代」の終焉を告げることになる。

90年代に注目を集めたものとして「萌えキャラ」がある。こうした萌え系のキャラクターは、メイド服、ネコ耳、ネコしっぽ…などの形式化した「萌え要素」の組み合わせで構成されており、オタクたちがそうした萌えキャラに「萌えた」のは、キャラクター(シュミラークル)への盲目的な没入や感情移入と同時に、その対象を「萌え要素」に分解しデータベースの中で相対化しようと試みたからだった。

「同人誌」やマッドムービーの制作など、本来の「ストーリー」とは別に、個々の要素を抽出・マッシュアップし、盗作やパロディやサンプリングとは違う原作と同じ価値をもつ「別バージョン」を生み出そうという欲望が背景にあったのだ。

ここにポストモダンの行動原理である「データベース消費」の構造が見られる。萌え要素のようなデータベース(大きな非物語)から必要な「情報」を読み込み、「小さな物語(シュミラークル)」を作り続ける。それは近代のツリー・モデルのように「小さい物語」の背後に「大きな物語」があるわけではない、そこにあるのはあくまで意味を持たないデータベースであり、即時的な「小さな物語」が無限に生産・消費され続けるのだ。

こうした変化は「大きな物語」が失われた後に登場した「日本的スノビズム」から「動物の時代」へ移行したということもできる。コジェーヴによれは人間は「欲望」を持つが動物は「欲求」しかもたないという。「欲求」とは、空腹→食べる→満足というように、ある対象の欠乏とそれを補うことで完結する単純な回路だ。これに対して「欲望」は満たされることがない。

学校で1番の美人を彼女にできたとしよう。それで満足するかというとそうではない。彼女に自分のことだけを思って欲しいとか、他人から羨ましく思って欲しい・自慢したいとか「他者の欲望を欲望する」という間主体的な感情を持ってしまう。これを動物的な「欲求」と対比して「欲望」という。

かってのように深層に「大きな物語」が存在しない以上、ポストモダンに生きる人々が「生きる意味」を与えてくれるのは表層の「小さな物語」だけである。データベースは意味を与えてくれない以上、そこから紡ぎだされる「小さな物語」によるお手軽な「感動」を楽しみ、感情移入するしかない。こうして「ポストモダンの人間は『意味』への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独を満たしている。」「世界全体はただ即物的に、誰の生にも意味を与えず漂って」いるのだ。


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今、この著を読み返す意味は、1つにはインターネットを含めた現代の状況を確認することだ。先日読んだ「東京から考える」では、経済のグローバリズム化や消費社会の進展にともない都市そのものも動物化した時代に即した「ジャスコ的郊外」が広がっていくとあった。

確かにそうだろう。インターネット上でのサービス・IT技術の進展はそうした状況をますます加速させるのだろ。人は便利なものに慣れ、手軽じゃないないものは避けるかもしれない。エンターテインメント分野では1つの「ヒット」をもとに要素の組み合わせで無数の類似作品が生み出されるかもしれない。

しかし同時に00年代も終盤に来た今、それだけでは物足りない動きも感じられはしないか。

コンビニでは店員とお客さんとの関係が「冷めた」ものから「声を掛け合うもの」・「手を包むようにお釣りを渡すもの」へと変わり。JPOPの世界では、「大塚愛」「オレンジレンジ」のような即時的なバカ騒ぎ系から「コブクロ」「倖田來未」「絢香」のような「関係性」や「生」「つながり」を求めるものへ。あるいは東氏が「人文系が語るネット」で記したように、ニコ動の盛り上がりは人と人との繋がりを希求しているのかもしれない。

そうした時代の変化を読み解くためにも、今この著を読むことはそれなりに意味がある。


「つながり・同期・メタデータ」東浩紀が捉えたネット社会

東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム / 東浩紀,北田暁大 -



動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会







1 コメント

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( ; ̄ω ̄)ゞ (ハイパー)
2008-01-27 05:39:51
あのバカ女、性欲強すぎ!タマ痛くなっちまったぜ…
でもまぁ、札束くれたからヨシとするかwww http://omnc.net/ce/687
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