Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

LUCIA DI LAMMERMOOR (Thurs, Feb 24, 2011)

2011-02-24 | メトロポリタン・オペラ
思い起こせば、メトの2007-8年シーズンはナタリー・デッセイが大活躍した年でした。
シーズンの終わりにHDにもなった『連隊の娘』でのコメディエンヌぶりも素晴らしかったですが、
オープニング・ナイトの『ランメルモールのルチア』は今でも私の脳裏にはっきりと焼きついている公演の一つで、
歌と演技が一体化し、ルチアが感じている痛みが彼女の作り出す音と一挙手一動に乗っている様子、
特に狂乱の場での、背筋が寒くなるような狂気の表現、そして、その先に、我々観客がルチアの悲しみを共有して胸が締め付けられるような感じがしたこと、、
などなど、今でも鮮明に思い出せます。
2007年の公演をHDにしなかったのはメトの最近の大失策の一つ!と私は思っているのですが、
実は、その2007年のオープニング・ナイトはライブでリンカーン・センター前とタイムズ・スクエアの二ヶ所のスクリーン上でライブ上映されましたので、
その映像は、全部をリリースできないだけで、メトが所有しているのです。
幸いにも、その2007年のオープニング・ナイトの映像の中から狂乱の場だけが抜粋でナタリー・デッセイのソロCDアルバム
"Italian Opera Arias"に付録として添付されたことは、以前、このブログでもご紹介させて頂きましたが、
(ただし、付録がない盤も存在しているようですので、もし、これからその映像を目当てにご購入になる、という方がいらっしゃるようでしたら、
付属DVDの有無に十分にお気をつけ頂きたいと思います。)
ありがたいことに、その後、映像をYouTubeにアップして下さった方がいらっしゃるようですので、ここにご紹介しておきます。
エンリーコ役はマリウシュ・クヴィエーチェン、ライモンド役はジョン・レリエー、アリーサ役はミカエラ・マルテンス、指揮はレヴァインです。










あれから3年5ヶ月、、、
その間には、ネトレプコが同じ演出でHDに登場して、それがDVDになってしまったり
(2008-9年シーズン。おそらくそのことがあって2007年の公演はHDに出来なかったのだと思われます)、
同年にデッセイが登場した『夢遊病の女』で、彼女自身のコンディションも今ひとつなうえ、新演出が一部のヘッズからの大ブーイングにあったり、
さらにはHDにも含まれていた『ハムレット』の全公演からデッセイが降板したり(2009-10年)と、なかなかに色々な出来事がありました。
デッセイに関してはそういうわけで、NYは2007-8年シーズン以来、彼女が好調の時の歌を聴いていないと言えます。
(2007-8年シーズンでもすでに彼女の声のプライムは過ぎていましたが、それでも『連隊の娘』での歌唱は好調だったと言ってよいと思います。)
今回のメトの『ルチア』の直前に彼女がパリで歌ったヘンデルの映像が出回り、
その中で伺われる必ずしも良いとは言えない彼女の声の状態について色々憶測が飛び回り、
もしかすると、『ルチア』もキャンセルになるんじゃないか?という声も一時あったのですが、
メトのリハーサルには現れたということで、まずは皆、胸をなでおろしたところでした。で、今日はその『ルチア』の初日です。



さて、NYタイムズでは、ザッカリー・ウルフという評者がこの初日の『ルチア』の公演評を担当しました。
彼がその中で書いている大事な点についておよそ私は非同意とするところなので、今回はその公演評に対応させる形で私の考えを書いて、
文章構成を考える手間を省こうという”すっかりずぼらモード”な今日のMadokakipです。

まず、彼は、ルチアがニ幕の後半で”自分自身の涙すら、私のことを見捨ててしまった。”と歌う場面があるが、
デッセイのその時点までの歌からは、心底心が泣いている様子が見えないどころか、せいぜい心が乱れている、といった程度のもので、
そのために、本来、観客の胸が締め付けられるように響く言葉であるはずが、およそその言葉の意味を十全には表現できておらず、
ほとんどその言葉の深いところに観客が気づくことのないまま終わってしまう、と書いています。
私も、この観察そのものには特に異論はないのですが、その後に続く、ウルフ氏の言葉に、”むむむ、、、。”です。
彼曰く、”(デッセイの)涼やかな声は、その音色が多少やせたかもしれない。
しかし、今もってコロラトゥーラの面では十分印象的な結果を出しているし、楽譜のクライマックスにあたる瞬間には、それに十分堪えうるだけの声である。
問題は、声そのものというよりも、声が奉仕すべきもの、つまり、役のキャラクターの表現、そちらの方である。”
あたかも、常に、声そのものの状態と関係なく、役の表現が意志のみによって変えられるものであるかのように、、。



デッセイが舞台に登場して歌い始めて気づくのは、3年5ヶ月という時間の間に、彼女の声がどれほど変わってしまったかということです。
”少し”とか”とても”とか”多少”とかいう言葉は非常に主観的なものではありますが、私はデッセイの声を3年5ヶ月前に比べて、
”多少痩せた”と形容するには大きな抵抗があります。私の感覚から言うと、”多少”ではなく、”とても”です。
先に書いたように、2007年時点でも彼女の声には時にほんの少しウェアが感じられる時があるなど、プライムの状態とはとても言い難いですが、
今回はその時とは比べものにならないほど高音域の発声自体に苦労していて、時にはひねり出している、という形容がより当てはまるように感じるほどです。
また、そのことは、特に一幕の”あたりは沈黙に閉ざされ Regnava nel silenzio”で当時と比べて、
彼女が大幅に高音域での装飾音の付け方を変えていることに現れています。
そして、それは良く聴くと、彼女が今出しにくく感じ始めている音を上手く避けるためのものであることがわかります。
強調しておきたいのは、決してデッセイが手を抜いているわけではない点です。
多少フィオリトゥーラに手を入れるだけでは、以前のようなアプローチでこの役を歌うことが難しくなっている、という、そういうことなんだと思います。
このような状態で、どうやって、ウルフ氏の言うような役の表現が可能になるというのでしょうか?
声と役の表現は間違っても別物ではない、役の表現とは、限りなく声そのもの、そして、それが成し遂げられることとイコールである
(特にベル・カント・レップでは)と、私は強く思います。



ウルフ氏はさらに、基本的に2007年時の公演と同じ演技付けで歌われている今回の公演は、
それがゆえにルチア役が非常に空っぽになってしまう事態を引き起こしていて、
それは、演出家のジンマーマンとデッセイが、公演が極度にオペラチックになってしまうことを避けながらこの演出を練って行ったせいではないかと推測し、
そのため、HDのようなクロースアップが多い映像では、デッセイの演技はきちんとオーディエンスに伝わるかもしれないが、
劇場ではそんな細かい演技は、我々オーディエンスの興味ともども(ま!辛辣ですね、ウルフ氏!)消え失せてしまう、と、
来る3/19に予定されているHDで彼女の受けが良い場合に備えて予防線を張りつつ、異議を唱えています。
(ちなみに、先述したように、『ルチア』は以前にネトレプコ主演のものがHD上映されており、同じ演目が再HD化されるのはこれが初めてのこととなります。)



私はこの点にも反対で、”公演が極度にオペラチックになってしまうことを避けながら”この演出が練られたとしたら、
最初にYouTubeの映像でご紹介した、あの狂乱の場はどう説明したらいいのか?あれがオペラチックでなくて一体何なのか?と思います。
(表現が直截的だとか、下品と感じる人はいるかもしれませんが、それはテイストの問題であって、上で紹介した映像を見て、
劇場ではなく、映像を意識した、繊細で微妙な歌・演技だと感じる人がどれくらいいるでしょう?
私はむしろ、演技としては大きな、劇場仕様の演じ方だと思います。)

実際、ここでウルフ氏は論理の破綻を起こしていて、そのすぐ後で、
”デッセイが、緊張感で背筋が寒くなるような素晴らしい狂乱の場を聴かせる頃までには、オペラ的感動は失われてしまっている”と書いていて、
狂乱の場では、彼女の歌と演技が、素晴らしいものであったことを認めているのですが、
そうすると、ジンマーマンとデッセイは、不思議なことに、狂乱の場前までは、ノン・オペラティックを目指していたのに、
なぜか、突然に狂乱の場ではそれをかなぐり捨てた、ということになるのですけれども、、。



確かに、ウルフ氏の観察眼は正しく、狂乱の場は、それまでの場での苦しそうな様子に比べると、
デッセイ自身の集中力が最高地点まで高められたか、声の状態を考えれば(もちろん2007年と同じ声楽的クオリティではないですが)
ほとんど奇跡的なほど、巧みな狂乱の場を聴かせてみせました。
大事なのは、デッセイは、このルチアという役の本質的な何かを摑んでいる、という点で、
それがあるからこそ、この厳しい声の状態でも、今、もしくはここ最近、この役を歌っている・歌った、
ずっと声楽的にはコンディションが良い歌手達(例えば、ネトレプコやダムラウ)と比べてすら、はるかに観客の心を揺さぶる歌が歌えるのだと思います。

私はウルフ氏のいうように、第一幕、第二幕でデッセイが、狂乱の場と同じ高みに自分を持って行けなかった理由は、
ひとえに声の不安定さ、そこから来る不安と集中力の欠如、さらにもしかするとスタミナに対する不安であって、
ジンマーマンとデッセイがノン・オペラティックなものを狙ったからだとは全く思いません。
私はこのウルフ氏という人は、2007年の他の公演は鑑賞したかもしれませんが、オープニング・ナイト公演は見てはいないのではないかな、とすら思います。
もし、オープニング・ナイトの公演を見ていたなら、一幕とニ幕の表現がいかに潤滑に三幕の狂乱の場に繋がっていったかということを、
ご自身の目と耳で確認されたはずですから、、。



歌手の声の状態というのは、いつまでも絶好調、プライムの状態が続くものではなく、いや、むしろ、歌手にとって、
一つの役でのその期間というのは、すごく短いとすら私は思っているので、だからこそ、2007年の公演をHDにしなかったのは失策だと思うわけですが、
ある面、これは人間が老いる生き物である以上、仕方がないことであり、デッセイを責める気にはとてもなれません。
少なくとも、彼女の歌唱から、慎重になっているのは感じましたが、手を抜いている感じは全く持ちませんでしたし、、、。

しかし、一方で、何の良心の呵責も感じず、大いに責める気になれるのは、パトリック・サマーズの指揮です。
彼はこれまで、R.シュトラウス(HD&DVDになった『サロメ』やフレミング・ガラの『カプリッチョ』の抜粋)、
プッチーニ(これまたHD&DVDになった『蝶々夫人』)、ベッリーニの(これもHD&DVD!の『清教徒』、、、とこう考えると、この指揮者、
やたら機会運だけは良いんですね。)をはじめ、何を聴いても失望させられることが多かったですが、
今回の『ルチア』に至っては、私は失望を通り越して、怒りを感じています。
この人はベル・カントの指揮の何たるかを、全くわかってない!!!本当に全く!!!
この公演からおよそ一週間後、3/5の『アルミーダ』公演のラジオ放送中、
インターミッションのレギュラー企画であるオペラ・クイズに、ホスト兼出題者としてナタリー・デッセイが登場しました。
現在、彼女が『ルチア』に出演中ということで、『ルチア』やベル・カントにまつわる質問やクイズを中心に構成されていたのですが、
その中、”ベル・カントで、文字通りの'美しい歌'ということ以外に、どういうところが魅力だと思うか。”という質問がありました。
私ならば、この質問に対して、”ベル・カントには明らかに、踏襲しなければならないスタイルや枠というものがあって、
その形式の美とドラマが融合したところに、ベル・カントの美の粋がある!”と答えます。
つまり、ベル・カントはヴェリズモのように好き勝手に歌ってはいけない、歌えば美が死ぬ、ということです。
そして、それは歌だけではなくて、オーケストラの演奏にもあてはまると思うのです。



それを、サマーズはまるで思い入れたっぷりにヨーヨーのように音やリズムを引っ張りまわしたり、
またプッチーニの作品に対する時のように向き合ったりしているのです。なんじゃ、こりゃ?です。そういうことは『蝶々夫人』の時にやってくれ、という。
かと思えば、第二幕でエンリーコとルチアの対立が終わった後、婚礼の儀式のために客が現れる合唱~アルトゥーロの登場の場面にかけては、
まるでスポーツのイベントの開会式かと思うような、唐突な底の浅い極端な快活振りにげんなりさせられます。
メトのオケに、まるでミッキーマウス・マーチを演奏しているかと勘違いさせるような、こんな『ルチア』を演奏させた人は初めてです。
それがどういうことかは、もし、今年のHDをご覧になる方なら、カラヤンやセラフィンの指揮による音源、
いえ、そこまで行かなくとも、2008-9年のネトレプコの『ルチア』を指揮したマルコ(・アルミリアート)の指揮と比べても、
どれほど頓珍漢にかけ離れ、全くスタイルを理解していないか、がすぐに判っていただけるかと思います。
私はレヴァインの指揮も、ものすごくベル・カンティッシュだとは思わないですが、それでもサマーズよりは余程きちんと押さえるところは押さえる指揮をしています。
そんなサマーズの指揮を、件のウルフ氏はクリスプだ、と言って褒めてるんですから、本当、わけがわかりません。
というか、サマーズのこの作品での指揮を褒めること自体、
このウルフ氏という人はベル・カントを本当に理解しているんだろうか、、?という疑惑を催させます。
大崩れしないだけが取り柄で、どんなジャンルの指揮を聴いても、”なんもわかっとらん、、、。”と思わせ、
それでいて、枠を越えた何か面白いものを生み出すわけでもない、サマーズのような指揮者が、
どうして毎年、大切な機会にメトに呼び戻され続けるのか、その理由がさっぱり不明です。



ウルフ氏の迷走は続き、さらにエドガルド役についても、びっくり仰天な発言をかましてくれます。
”カレイヤはセンセーショナルなほど熱いエドガルドで、メトで彼が歌った役の中でも最も優れた役柄と言える”。
後半の、”メトで歌った中で一番”云々というところは疑問を抱かないわけではないですが、
まあ、前半については、私も同意します。彼のエドガルドは面白い。正直言って、彼の歌には繊細さの微塵のかけらもなく、
時にフレージングや音の消え方は雑だし、超ベル・カンティストなら、”こんなものをベル・カントと呼ぶな!”と叱るところかもしれませんが、
一方で、こんなにごっついエドガルドというのは、あまり聴いたことがなく、確かに熱さ、いや、暑苦しさと言った方がいいかもしれませんが、、
では、抜きん出ているところがあって、エドガルドをロブストに歌うとこうなる!という実験的要素があって、そこを私は面白く思います。
ただし、普通で言えば、やはり彼の声はこの役を歌うにはちょっと重くなり過ぎているということなんでしょう。
ま、ここまではいいです。問題はその先です。
”あまりにも多くの公演で、オペラの最後のシーンとなる墓場の場面が、ルチアの狂乱の場の後では、どうしようもなく
アンチ・クライマクティック(要はもりあがらない、ということ)なものになってしまうが、
この公演で、ドニゼッティがこの作品をなぜこのような構成にしたか、ついにはっきりしたように思う。
それはほとんど、ルチアの悲劇ではなく、エドガルドの悲劇と言っても良く、ならば、彼に最後の、美しい言葉を雄弁に語らせようではないか、と、
そういうことなのだと思う。”
、、、
ちょっと、この人、まじで、そんなこと思っているんですか、、、?
この作品が、ルチアのそれ以上にエドガルドの悲劇であるわけがないじゃないですか!!
もしこれがエドガルドの悲劇なら、なんだってドニゼッティは20分もの時間をルチアの狂乱の場のために無駄にするのか?って言うんです!!
もちろん、エドガルドの悲劇的側面がないわけではありませんが、彼の悲劇は絶対にルチアのそれを越えてはならない、
ドニゼッティが最後にエドガルドの場面を置き、そこで対照的に清らかなメロディーを歌わせるのは、
そのことにより、よりルチアの狂乱の場が引き立つような、お汁粉に塩を入れる、そういった効果と、
2人の魂がついに死によって結ばれることで、観客の心に慰めを与える効果、そして、おそらくこれで両家の対立は終わるだろうという予感を生ませる、
そういう効果があると思うのですが。
こういう、批評のための批評、利口に見えることを書くためだけの論理のツイストはいかんだろう!と思います。



エンリーコ役を歌ったテジエですが、彼の声は、トーンは端正で素敵だと思うのですけれど、
劇場では分散してしまうというか、フォーカスがはっきりせずに、ぶおーっと音がまとまりなく横広がりになってしまうような感じがしますし、
演技も少し焦点がないというか、切れが甘い感じがします。
このエンリーコ役の雰囲気は、ちょっと陰気そうで(出待ちをした時の経験から、ご本人が朗らかな方なのは存じ上げているのですが、
舞台プレゼンスが陰気なんです、、)ダークな彼の持ち味に合っているとは思うのですが、、。
うちの連れも、彼の顔はまるで今世紀の人でも20世紀の人の顔でもないみたいだ、、、と言っていますし。(要は19世紀的、と言いたいらしい、、。)

ライモンド役のクワンチュル・ユン。声は立派なんですが、歌に味がないし、演技が平べったいですねえ、、、。アジア人の性(さが)かしら?
歌うパートは少ないですけれど、この役は非常に大事な役なんです。
2007年の映像のレリエーの”やってもうたー!”という焦りと呆然の表情を良く見て欲しいと思います。
ルチアの不幸が本格的になって行くのは、彼が安易に、”もうエドガルドは君のことを何とも思っていないのだろう。家のことを考えて
アルトゥーロと結婚するのが良かろう。”という内容のことを助言してしまう瞬間です。
大体、手紙にしばらく返事がないだけで、なぜそんな風に思ったりしてしまうのか?このライモンドという人は実に罪深い、、。
だから、狂乱の場につなぐ最初の歌い始め、それから狂ってしまったルチアを見守る様子に、
自分の行動への悔悟と呆然となった気持ちがないまぜになったものが現れていないと!!!ユンの歌と表情は、その点に奥行きがなさ過ぎです。
トップの写真を見ると、そのことがわかっていないか、もしくはわかっていてもそれを表情にして表現することが出来ないことが丸出しの
呑気な表情にがっくり来る気持ちがわかって頂けると思います。

アルトゥーロ役を歌ったマシュー・プレンクは、実は映画『The Audition』の時のメンバーの一人なんですが、
あまりに個性が薄かったか、まともに良い人過ぎるのか、あまりフューチャーされていなくて覚えていらっしゃらない方も多いかもしれません。
でも彼はリンデマン・ヤング・アーティスト・プログラムに所属しているので、これまで『トリスタンとイゾルデ』の水夫の声のパートや、
『三部作』の『外套』の歌売りの役、『ハムレット』のマルセラス役等、メトの舞台で小さな、でも大事な役を堅実にこなして来ている人で、
三部作を除いては全部HDの時の公演を含んでいるので、舞台度胸もそこそこある人です。
彼の顔を見ると、いつもノーマン・ロックウェルの絵みたい、、、(そばかすいっぱいでちょっと出っ歯なオールアメリカンなルックス)と思うのですが、
遠めに見る分には、今回のアルトゥーロ、なかなか見た目は素敵に、歌も無難に歌っています。
ただし、一発目に声が出てきた瞬間の、声そのものに備わった天分とか、その後のフレージングのちょっとした巧みさは
2007年の時のスティーブン・コステロに全く適わず、厳しい言い方をすると、声の天分という意味では割りと平凡な歌手だということが、
露呈してしまっています。(もちろん、表現力がつけば、それで歌手生命が終わりなわけじゃないですから、精進あるのみ!)

以前、別の記事でもご紹介したことがありますが、2007年の公演からその部分の抜粋を。
そう、今回の演奏ではサマーズがミッキー・マーチしてしまった部分ですが、さすがにレヴァインはそんなことになっていません。




今回の公演はたった3年半という短い時間がどれだけオペラの世界では大きな意味を持つか、ということを表すもう一つの例になったと思います。
デッセイが登場する『ルチア』のHDの公演は3/19。彼女のコンディションが良いことと集中力を全幕に渡ってキープし、
もう一度、あの2007年の時のような素晴らしい歌唱を聴かせてくれることを願っています。


Natalie Dessay (Lucia)
Joseph Calleja (Edgardo)
Ludovic Tézier (Lord Enrico Ashton)
Kwangchul Youn (Raimondo)
Matthew Plenk (Arturo)
Theodora Hanslowe (Alisa)
Philip Webb (Normanno)
Conductor: Patrick Summers
Production: Mary Zimmerman
Set Design: Daniel Ostling
Costume Design: Mara Blumenfeld
Lighting Design: T. J. Gerckens
Choreography: Daniel Pelzig
Dr Circ C Odd
ON

***ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor***

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15 コメント

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なるほど~。 (sora)
2011-03-08 22:17:22
実は主役はエドガルドだったんですね~。あはは。
どっちがより悲劇かを比べるなんて意味のない事だと思いますが、どう考えたってルチアに照準を合わせて作られてますよね。
とはいえ私、結構エドガルドの悲劇?に感情を揺さぶられてしまいます。
最後が盛り上がらないなんて、、、悲しいな。私的にはかなり好きな場面なんですけどね。あれでメソメソと感傷に浸るのが乙なのに(笑)

>ならば、彼に最後の、美しい言葉を雄弁に語らせようではないか

なんかずれてるかも。雄弁にってまた(^^),,,
もっと内面的なものを... (Kinox)
2011-03-09 13:14:30
2月24日のMETストリームを聴いていて、こんな昇華された美しいmad sceneがあるもんなんだろうかとびっくりしました。こうなると音だけではなく、舞台も是非、と思い、急遽さ来週(HDの日にあたるんですね)のチケットを求めました。別のラジオで、今回はもっと内面的なものを大切にした演技、パフォーマンスにするつもりだとDesayは言っていました。とても楽しみにしていたところにmadokakipさんの評を読んで、ますます楽しみになりました。
しかし仰るとおり、この記事のようにオペラ・音楽的なことはさておいて、あるいは見当違いなことを言っておいて、単なる見世物としての評とか売り出し中の人をよく言うとか表面的なオペラ評をよく見るようになりましたが、本当にがっくりきます。
楽しみ (コバブー)
2011-03-09 13:40:15
 感想を読ませてもらって、HDが楽しみになりました。
 デセイのことですから、一発勝負の時にはやってくれるんじゃないでしょうか。

 カレイヤについては、東京でネモリーノを聴いたときと同じ感想で、思わず笑ってしまいました。東京でその実験的な歌を聴くのが楽しみ…?。
soraさん (Madokakip)
2011-03-10 02:22:39
そう、主役はエドガルドだったんですよー!知らなかったなあ。(冗談ですよ、もちろん!笑)
もう本当、訳わからないですよね、この人の文章。
悲劇という言葉の定義にも幅があって、
確かにsoraさんのおっしゃるように、もちろん、“エドガルドの悲劇的要素”もなくはないと思うんですよ。
でも、私はこのラストでは、エドガルドは幸せなんじゃないかと思うんです。
最後になって、彼はルチアが最後まで自分を思い続けていたこと、
決して彼を裏切った状態で死んだわけではないことを知るわけですから、、。
そして、自分の命を奪って、ついにルチアと一緒になれる、、
でなければ、あの心が平安に辿りついたような、ほとんど穏やかとも言ってもよい音楽を
ドニゼッティはつけないんじゃないかな、と思うし、
色々批判もあるジンマーマンの『ルチア』の演出ですが、私はそこを強調したこのプロダクション、悪くないと思っています。
Kinoxさん (Madokakip)
2011-03-10 02:36:59
この記事、結構ニュアンスを伝えるのに苦労したのですが、
まとめると、デッセイの声の状態に2007年のようなものはあまり期待できないかもしれない、
その結果として、一幕、ニ幕はややローに走るかもしれませんが、
さすがに、彼女の役の把握力もあって、相変わらず狂乱の場は非常に説得力のあるものになっており、
歌唱だけでなく、役の表現も含めると、現在(声の状態を考えるとぎりぎりで)
やはり最も優れたルチアの人物像を提供できる歌手の一人ではないか、と思います。
歌だけでなら、多分、ダムラウの方が今は完成度が高いものをデリバーすると思いますが、
この役に必要なハートとドラマ、これを私はデッセイの方により多く感じます。

>今回はもっと内面的なものを大切にした演技、パフォーマンスにするつもりだと

そんなことを言っていたんですね、デッセイ。
記事の中で紹介したレビューの書き手はそのあたりのことも念頭にあって、
彼女の演技が細かすぎる、等のけちをつけていたのかもしれませんが、
私は劇場で見る限り、彼女の演技が“消えている”とは特に感じませんでした。
むしろ、本文で書いたように、一幕、ニ幕では声が落ち着かなくて、そちらに気をとられていた感じがします。
コバブーさん (Madokakip)
2011-03-10 02:38:33
Kinoxさんへのお返事に、もう少し鑑賞の要点を絞って書いてみました。
(っていうか、最初から要点を絞って書け!という話ですよね。すみません。
しかし、私の場合、全然公演のメモとかノートを取っていなくて、
ここで記事を書く際、頭で公演を最初から最後まで反芻しながらのプロセスになって、
逆にそれをやらないと何も思い出せない、、ということになるんです。
なので、最初から要旨だけをまとめるのが苦手で、どうしても、文章が長くなってしまう、、
と、そういうわけなのです。しようがないなあ、、と思ってお許し頂けたらと思います。)
来週の土曜(HD)は、デッセイの一発集中力に期待いたしましょう!

カレイヤはここ3年位でものすごい速さで声が重くなりましたので、
多分、ネモリーノを聴かれた時に今回の私と同じような感想を持たれたのかもしれないですね。
私が彼のネモリーノをメトで聴いた時は、まだ、軽さが残っていましたので、少し違う印象でしたが、、。
やはり、3年という月日は大きい!そこに行き着きます。
聴きました (コバブー)
2011-03-26 07:53:39
音だけですが、3/19のを聴きました。
 
 ベルカントスタイルのかけらもなく、浅薄なサマーズの指揮と、何も考え感じていないカレイヤに足を引っ張られながらも、今の自分に出来る限りの力を振り絞り、必死に歌っているデッセイに心を動かされました。ルチアで泣けたのは、久しぶりです。

 声の調子は良いときの5割から6割程度でしょうか、最初から不安定で最後までとても持つとは思えませんでした。第一幕のアリアもあちらこちらで危ないところがありました。ただ最後の最後で気力を振り絞って、取り戻してきました。このあたりは、さすがとしかいいようがありません。

 第二幕のエンリーコとの二重唱は、相手役のテジエがしっかりとデセイをサポートしながら、しかも全体のレベルを下げないという見事な対応で素晴らしかったです。
 ただ指揮にはイライラさせられました。あんなグズグズなルチアの六重唱を聴いたことは、今までありません。

 狂乱の場はなんといっていいか…。今までパーフェクトな技術を誇ってきたデッセイのルチアに比べれば、技術的には不完全でしょう。声の美しさも絶頂期ではないと思います。
 そのかわりに、この場でのデッセイはルチアそのものというしかありません。音の一つ一つ、言葉の一つ一つがルチアです。すべての音に、そしてたとえそれが不安定な音であっても、ルチアの真実が込められています。
 狂乱の場というのは、ベルカントスタイルの行き着く果てに、スタイルの破綻とのせめぎ合いの中で真実が表現される場面だと思っていますが、それを感じさせてくれた歌唱だったと思います。

 カラスのベルリンライブに匹敵する歌唱が今聴けるなんて幸せです。HDの上映が楽しみです。
コバブーさん (Madokakip)
2011-03-28 03:42:38
>ベルカントスタイルのかけらもなく、浅薄
>あんなグズグズなルチアの六重唱

本当に彼のこの作品での指揮を形容する言葉は二つや三つでは足りません!
指揮が公演全体の足をひっぱっているんですよ!
オケがレヴァインやマルコの時とはまるで違う団体のような音を出していますよね。
こういうことがあるから、またまことしやかにAオケBオケ説が飛び出たりするんでしょう。
演奏者は当時とそれほど入れ替わっていないですよ。これはひとえにサマーズの責任です!
お聴きになったHDのルチアと同時期には、彼がこのルチアとイフィゲニアをダブルでカバーし、
『スペードの女王』ではネルソンスが暴れ、
また『ロミ・ジュリ』ではドミンゴ様が歌手とお見合い系の指揮を繰り広げていて、
はっきり言って、まともな指揮をしているのは『アルミーダ』のフリッツァだけ、
私がオケのメンバーなら泣きたくなるような状態でした。

そうですね、HDの日の歌唱に関してはその日の感想に詳しく書くつもりですが、
デッセイの歌からは今持っているものをすべて駆使して歌ってくれている、というのは感じました。
ただ、やっぱりどこかに大きな失敗をしないように、、と彼女が慎重になっているのはわずかながら感じられて、
それが2007年の時の体当たり歌唱とは少し印象が違う理由ではないかと思います。
それでも、彼女がこのルチア役をきちんと自分のものにして、他の誰にも真似のできないものにまで高めている、
これはまぎれもない事実で、その事実だけでも賞賛に値するものだと思います。
またHDをご覧になってのご感想も伺えると幸いです。
HD観てきました! (Ree)
2011-04-09 14:53:23
映画館の大画面でオペラを鑑賞して、久しぶりにどっぷりと音楽の世界に浸る事が出来ました。
最近、家でも(節電もあり)CD等聴いていなかったですし、コンサートはキャンセル続出でしたので、ライヴではないものの久しぶりの音楽鑑賞で、かなり癒されました。

幕間のインタヴューの最後に、フレミングが被災した日本へのメッセージを送ってくれて、とても感激してしまいました。

6月にメトが引っ越し公演実現してくれると更に感激なんですが、やはり、今の状態では厳しいのでしょうね・・・
おぉー!とはなりませんでした。 (sora)
2011-04-11 22:52:00
昨年?は私、なんだかんだで結構どっぷりこのHDに嵌った記憶があります。
今回は結構冷めた感じで終わってしまったのですが、多分一番の原因は演奏だったのだろうとは思います。とはいえ別に苛々して怒りが湧くとかは無かったです。何となく過ぎていきました、、、。

カレヤは私、今までで一番良かったです。(ホフマン物語HD、愛の妙薬@新国)
なかなか骨太エドガルドでしたね。
私のイメージ、あまり感情が表に出ないタイプ(声にも)だと思っていたので、今回の‘怒り’はなかなか新鮮でした。
私の好みは完全に子犬系ベチャーワですし、今回のエドガルドでは全然泣けなかったけど、これはこれで面白かったです。
それにマントの捌き方が上手いじゃないですか!ベチャーワの時は何そのマント?って思ってましたが、カレヤはなかなか演技が上手いんでしょうか?色々と自然な感じが私にはしました。指輪は入らなかったのか小指でしたけど、、、。
最後もデセイの演技もあってか、去年よりずっと自然で死んだ顔も面白かったです。
ちょっと見直しちゃいました。
ニ幕の怪獣っぷりもウケちゃいましたし☆

デセイは声的にはやっぱり辛そうでした。
衰えはともかくとして、この時期の調子もイマイチだったんでしょうか。
ネトコさんと違って自然にルチアだなぁ~と思えるだけにちょっと残念でしたが、うーん、でも聴かせますよね。

テジエさん、幕間で「ルチアだけじゃなく、お兄ちゃんは病的なんだ」みたいなことを言ってました。
あら面白そう!なんて思ったものですが、ちょっとそれには足りなかったですかね。どうせならもっと陰鬱な感じで、、、。

今日の地震も恐いです。。。
ふっつーに‘来て欲しい’でも、、、なんかあったら困るし、、、心配無いような気もするし、やばいような気もするし、‘はぁ’な毎日です。
でも桜は本当にきれいです。
ニューヨークには桜ありますか?

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