Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

八月納涼大歌舞伎~お国と五平・怪談乳房榎 (Tues, Aug 18, 2009) 中編

2009-08-18 | 歌舞伎
前編より続く>

幕間に歌舞伎座内の客席エリア以外の部分を探検することにしました。
歌舞伎座の面白いのは、客席エリアと、売店や食事どころなどのある客席外エリアの比率。
後者がすごく大きくて、特に売店ロビーの賑わいはびっくりしました。
メトのギフト・ショップなんて目じゃない盛況ぶりで、売られているアイテムにもびっくり。
歌舞伎の有名なキャラたちに扮したキティちゃんの携帯ストラップ!また何とマニアックな、、(笑)。


(左から雪姫、藤娘、静御前、揚巻、後ろで黒い傘を持って夢中で舞っているのは鷺娘。)

ブリュンヒルデに扮してワルキューレ用鉄兜をかぶったキティちゃん、
アイーダばりに黒塗りになったキティちゃん、
背中に貧乏アパートをしょっているロドルフォ型キティちゃん(ボタンを押すとハイCで鳴く)、
またまた黒塗りで、アイーダとどこが違うんだ!とつい買い手が怒ってしまいそうなオテロ・キティなど、
オペラでも応用が十分効きそうなアイディアではあるのですが、
メトのギフト・ショップでキティちゃんの携帯ストラップ、、、、ちと無理っぽい。

役者さんの舞台写真、これは定番ですが、ふと考えると、昔、メトのギフト・ショップには
現役の歌手のサイン入り写真がたくさん売られていたのに、最近すっかり見なくなったのはなぜなんだろう、、?

さらには、手ぬぐい、のれん、文房具など、
ありとあらゆるところに歌舞伎の登場人物やら隈取といった意匠が印刷された商品で溢れかえっています。
そしてその隙間にお菓子を売るコーナーまで、、。
世界のオペラハウスをはしごしても絶対にお目にかかれなさそうな、
この駅ビルのような雑多ぶり、この何でもあり!の節操のなさが、
貪欲に色々なものを吸収して発展していった歌舞伎というアートフォームとシンクロしていて微笑ましい。
実にはちゃめちゃです。

客席外で圧倒され尽くし、座席に戻ると、いよいよ、後半の演目『怪談乳房榎』の開演です。
前編でも書きましたが、今日の鑑賞は、もちろん作品とお芝居そのものも大いに楽しませて頂いたのですが、
さらに、歌舞伎の世界では当たり前だけれども、他の芸術形態では全然当たり前じゃない、
いろいろな伝統習慣とか上演時の知恵、舞台周りの工夫などで感心させられることが多々ありました。

私は西桟敷、つまり舞台下手側に座っていたせいで、定式幕の開閉の様子がはっきりと見えたのですが、
幕の舞台下手側の端に人が居て、走りながら手で挽いて開けるというのがびっくり仰天でした。
今はそこそこの大きさの劇場なら電動で開閉する緞帳がほとんどですが、
このレトロな感じというのはなんともいえない味があります。
しかも、走り方一つにも美学があるというか、少し前のめりになりながら、
足裏が見えるくらい蹴って走るんですね。
今では上演が始まりますよ、という合図でしかない、幕を開けるという行為ですら、
芝居の一部になっているというのが美しいと思います。

プログラムによると、この『怪談乳房榎』という作品は、明治に創作された三遊亭円朝の落語がベースになっていて、
同じ明治のうちにほぼ原作どおりに歌舞伎化されているのですが、
大正三年に、後の二世實川延若が原作にはなかった三次の役を創作して付け足し、
その三次も含めた、この作品の最大の見所であるといってもよい
早替りのアイディアを盛りこんで現在の上演に至っています。
延若は上方の役者なので、江戸が舞台でありながら、どこかこってりとした芝居であるのが特徴なのだとか。

序幕 隅田堤の場

(あらすじ:赤ん坊の真与太郎と女中を連れて花見をしていた、
江戸で最近評判の絵師菱川重信(早替りの役①)のお関を絡む酔っ払いから救い出した浪人磯貝浪江。
お関が何者かを知った浪江は、重信の弟子になれるようお関に口添えを頼む。
菱川家で下男として働く正助(早替りの役②)がやがてあらわれ、
お関の窮地を助けてくれた浪江にお礼を言い、忙しく立ち去る。
一人残された浪江が何かをたくらむかのようにほくそえむ様子を陰からのぞいた男がいた。
小悪党、蟒(うわばみ)三次(早替りの役③)である。)

序幕では重信のことは語りの中でふれられるだけで、まだ実際には舞台上に登場しません。
つまり、中村勘三郎が初めて舞台に現れるのは正助の役の姿でなのですが、これが実に有効だと思いました。
この作品で最も魅力的な役はこの正助で(ある意味、彼が一番の主役と言ってもよいくらい)、
また、勘三郎の持ち味とも非常に相性が良い。
詳しいことは作品の中では語られませんが、どうやら正助は農民でありながら、
重信の優しい心遣いで下男として菱川家で働かせてもらっているという背景があるようです。
心はやさしいのだけれど、かなりおっちょこちょいのあわてんぼうで、
学がないゆえ、頭が少し緩めの(しかしそれ故に後にとんでもない事態に巻き込まれる)憎めないこの役で、
登場した瞬間から勘三郎が観客の心を捕らえたのがはっきりとわかる、素晴らしい掴みです。

しかし、何と言っても格好良かったのは中村橋之助演じる浪江。
この役は役得もあるかもしれません。いわゆる色悪に類する役で、悪人だけど格好いい。
ワルはワルでも悪の美学がある役です。
オペラで言うと『トスカ』のスカルピアに近いか?
『オテロ』のイヤーゴも悪の美学しているワルですが、
イヤーゴはなぜかあまり色の部分を感じさせないので。
NYに帰って来てから母と電話でこの日の公演のことを話していたら、
”橋之助は三田寛子のだんなやなあ。”と言われて仰天。確かにそうではないですか!
いやー、三田寛子のだんなの橋之助はさわやかな人のような印象がありましたが、この日の橋之助は別の橋之助?
最初に登場する場面で、花道を客席の後方側から歩いてくるのですが、
そのやさぐれた視線で桟敷席を射すくめる眼力は、迫力ありました。
それはもう10年以上も前になるからかもしれませんが、テレビで見た記憶では、
橋之助という人はすごく痩せていて頭も小さく、小柄な人のようなイメージがあったのですが、
なぜか、舞台に立つと大きく(縦にも横にも)見えるし、
頭がこんなにでかかったかな、、と思いました。いや、褒め言葉で。
歌舞伎の舞台は着物をつけているせいだと思うのですが、
頭の小さな西洋人体型より、やや頭部の大きい体型の方の人の方が見栄えがするように思います。
一箇所だけ残念だったのは、浪江がまんまと菱川家に入り込む手ががかりができて、
皆が去った後にほくそえむ場面。
あまりにいっしっし、、と言う感じに過ぎたと思います。
あの登場場面であれだけ眼力で勝負できるのですから、もっと抑えた方が却って迫力が出たと思います。

浪江ほどの大悪でなく、ゆすりたかりで小さく頻繁に稼ぐちんぴら野郎が蟒三次ですが、
ちんぴらながら、明らかに正助のような農民とは暮らしが違うわけで、
プチ小粋(しかし、もちろん浪江ほどには格好よくない。)な感じをうまく勘三郎が出していたと思います。

かように、軽くADDを患っているような落ち着きのないすっとぼけた正助、
ほんの少し涼やかな部分を残した小ずるいちんぴら野郎三次、
そして、重厚な雰囲気の重信と、このキャラの違う三役を早替りさせるところに、
この演目の妙があるのですが、
そのキャラの違いを観客の脳にサブリミナルで植え付ける良く出来た序幕です。

 ニ幕目第一場 柳島菱川重信宅の場

(あらすじ:あれから二ヶ月。浪江はまんまと菱川家に入り込んだ。
南蔵院本堂の天井絵の依頼を受けていた重信は龍を用いた構図を考えつく。
寺からの、出来るだけ早く完成させて欲しい、という依頼に、
愛する妻お関と生まれたばかりで可愛くてしょうがない真与太郎を残し、夜道を寺に向かう重信。
真与太郎に添い寝するお関の寝間に脅しと泣き落としで紛れ込んだのは浪江で、
途中で正助に邪魔をされそうになりながらも、目的を果たす。)

『お国と五平』でお国を演じた中村扇雀は、やや内股でかわいこぶりっこな感じで、
これはちょっと歌舞伎に馴染みの薄い女であるところの私からすると、
あまりに古風な女すぎて(中身はそうでもないくせに!)
”そんな女いないだろう、、”と、若干ひいてしまったのですが、
中村福助のお関は、もちろん役のキャラクターのせいもあるのでしょうが、
わざとらしい女性っぽい所作がなく、それでいて、きちんと女性としての仕草のつぼをおさえていて、
なお、格好良さがあるのが私は素敵だと思いました。
ただ、歌舞伎でちょっとぎょっとするのは、扇雀にしろ、福助にしろ、
女形が仕草は女っぽくしても、声のほうはまるで女っぽくしようとしないこと。
私は女形って、もう少し声のピッチを高くしたりして、女性っぽい声色を作るのだと思っていたのですが、
福助は地声がだみ声気味なのか、仕草はきれいなのですが、
低いトーンで喋る台詞がいつのまにか、
八百屋の”ねえさん、今日白菜安いよ。寄ってって。”に聞えてきます。

あと、福助は、実際、結構背丈があるんでしょうか?
舞台で見ると、女性としてはものすごくでかく見えます。
繰り返すようですが、所作は綺麗なので、なんだか、実際の女性を拡大コピーしたような不思議な感じがします。
この場面は要は浪江が赤ん坊の前でお関を手篭めにするという場面なわけですが、
上手く出来ているのは正助を引っ張り出してきて、その陰惨さを見事に中和している点です。

というか、二人が寝間にいるのに、そのことに気付きもせず、
表立っては助けを乞いたくても乞えない状態におかれているお関が微妙に正助を引きとめようとするに、
間抜けな受け答えでその真意をことごとく測り損ねる正助とのやり取りのせいで、
コミカルな場面に転化されているところが見事です。
最後にふと、”あんな色男(浪江)と一つ屋根の下、二人きりにしておいて大丈夫かな?”と、
そこまで考えておきながら、しかし、更に深く考えることはない。さすが正助です。
一つ屋根どころか、一つ部屋にいるんですけど!

また、浪江がお関に迫る場面が、見得を切る個所の一つで、
突然、動きがスローモーション、かつ、ほとんど型を披露しているような踊りのような動きになったかと思うと、
それぞれが見得を切って、そこで、大向こうからの掛け声がかかる。
しかも、ここだけ、突然さらに時間がさかのぼったかのように、
二人が発する日本語が難しくてよく聞き取れない。
直前の場面までの日本語より、古風な日本語が用いられているのではないかと思います。
ただ、見得を切るほどの場面、つまり大きな見せ場なので、
大体どういうことを言っているかは想像がつくのですが。
かように、いきなり言葉が古くなったり、時間軸が捻じ曲がるかのような、写実度を無視したゆったりとした動きもびっくりなら、
大向こうからの”成駒屋!”等の掛け声にも二度びっくり。
オペラでかけるBravoなんて、度胸さえあれば誰にも出来ますが、
歌舞伎での掛け声は、とてもとーしろがいきなり参加できるような代物ではありません。
だって、その掛け声にすら独特の発声が必要なんですもの、、。
そこには、その言葉を発しつつ同時に”うりゃーっ!”と言っているような、
不思議な響きがありました。
しかも、オペラの場合、Bravoや拍手を誘発するのは、
時にはある決めの一フレーズだったりしますが(『椿姫』のヴィオレッタの”私を愛してね、アルフレード”の後や、
『トスカ』のカヴァラドッジの”勝利だ、勝利!”の後など。もちろん、感動的に歌われれば、の話ですが)
大抵はアリアの後、と、非常にわかりやすい個所にありますが、
歌舞伎でのそれは、まさに”合いの手”で、役者の言葉のやり取りの間に
すっ、と差し入れなければならない。
つまり、よく作品とその台詞並びをしっていないと、
役者の次の台詞に重なってしまうという恐ろしい危険を含んでいるのです。
Bravo/a/iが、素晴らしい歌唱&パフォーマンスだった!という、
観客の気持ちを歌手に一方的に伝えるものだとしたら、
歌舞伎の掛け声というのは、より二方向的なものに感じます。
だから、声もやたらめったら大きくかければ良いというものではなく、
声をかける側も進行している芝居を邪魔しないような、丁度良い声量を心がけているのに気付きます。
恐るべし、歌舞伎。ヘッドは大変だ、これは。

 二幕目第二場 高田の料亭花屋の二階の場

(あらすじ:南蔵院に近い料亭の座敷で一人酒を飲む三次。そこにあらわれる浪江。
この二人にはかつて、お関のおじが遣えていた主家の金蔵を破り、共犯で二千両を奪った過去があった。
その金蔵破りで得た取り分も使い果たしつつある三次は、
菱川家に入り込んでいる浪江に金の無心を始める。さすがちんぴら。
しぶしぶ浪江が金を与え三次を返すと、寺にいる重信に料理を差し入れするという名目で
浪江が呼びつけておいた正助が入れ替わりにやって来る。
これはもちろん浪江のたくらみで、上手く正助をおだてて金を与え、かつ、自分と兄弟の契りを結ばせた後で、
重信が親の敵であったことに気付くにいたったような芝居をうち、
正助に兄として、一緒に重信を討ってくれないか、ともちかける。)

この場の、三次と入れ替わりに正助が入ってくる場面が、最初の見事な早替り。
舞台上にある座敷は実際には二階という設定で、舞台の真ん中に、
一階に見立てた舞台下から階段があがってきており、
例えば私の座っている座席からだと、階段の上から3段ほどが舞台上に見えるようになっているのですが、
三次の衣裳の着物をつけた勘三郎が客席を向いて階段をおり、正助と挨拶を交わしながら姿を消したと思った途端、
正助の衣裳をつけた勘三郎が客席に背中を向けて階段を登ってくる。
あれ?いつ着物変えたの?もしや別人??と思うのですが、
三次はさっきまで浪江との芝居があったから紛れもない勘三郎だし、
今、浪江と向き合っている正助も絶対勘三郎だ。
ということは、あのほんの一瞬で着物が変わったと思うしかない。本当、早替りだ、、。

今日の舞台は勘三郎と橋之助が共に良く、なので、この場は早替り以外の部分もとても見ごたえがありました。
特に正助となって現れてからの勘三郎が本当に良い。
浪江のような極悪人と縁あったばかりにひどい目に会う正助なのですが、
とにかくハイパーなくせに、なぜかいつも半歩遅れているというキャラクターを本当に温かく演じていて、
どんどん不幸に巻き込まれていくのに、どこかその無垢さがかわいらしく、
つい観ているこちらが笑ってしまいます。
そして、なんの罪悪感も感じず彼をどんどん奈落の底に突き落としていく浪江の冷たさ。
橋之助、私はこれまで爽やかな人と思っていましたが、
この冷酷な役を自然に演じているのを見ると、考えを変えなきゃな、と思えて来ました。

 二幕目第三場 落合村田島橋の場

(あらすじ:南蔵院の天井絵の完成も間近。
息抜きに蛍狩りに出てきた重信に浪江が竹槍で襲いかかる。
正助も、元武士出身の重信相手では何ほどの助けにもならないのだが、結局、浪江に手を貸してしまった。
ついに重信の息の根を止める浪江。
恩人ともいえる人物を殺すのに手を貸してしまい、半ばパニック状態になっている正助は、
口外したら殺すと浪江に脅され、菰を被って逃げていく。
夜道をその正助とすれ違う三次。
浪江は暗闇の中、三次を突き飛ばして逃げるが、印籠を落としてしまったため、
正体が割れ、さらに三次に弱みを握られてしまうことになる。)


(重信役に扮する中村勘三郎)

この作品は大詰めの滝の場面が最大のハイライトとして捉えられているようですが、
私個人的には、一つだけ選ぶなら、絶対この場をとるでしょう。
花屋の早替りもすごい!と思いましたが、いやいやこれは!!
正助が我を失って菰を被り、花道を舞台側から客席後方に向かって走り去るのですが、
私のほとんど目の前で、一瞬ぱっ!と正助が宙に跳ね上がったかと思うと、
もう、逆に(つまり舞台の方向に向けて)走っていく三次が勘三郎になっていました。
花屋での早替りはほんの一瞬ですが、二人の姿が見えなくなる瞬間がありますが、
この場面は花道のど真ん中で、隠れるところなんてなにもない、
あらゆる角度からの観客の視線が集中している場所です。
つまり死角がないはず。
しかも、私の席からの距離はものの2メートルほどと言ったところです。
そんな至近距離にいても、一体何が起こったか一瞬わからないほど、
本当に魔術のように二人が入れ替わってしまったのです。
もちろん、これを支えているのは演じている勘三郎や入れ替わる相手方に立っている方の技と鍛錬、
そして、着物の着付けなどを担当している裏方さんの工夫と努力の賜物なのであって、
これを魔術呼ばわりするなんて叱られてしまうかもしれませんが、
あまりに早く、あまりに隙がないので、そうとでも形容するしかないのです。
その見事な早替りに客席からは猛烈な拍手と歓声の嵐。
この花道での正助から三次への早替りが最大の見所ですが、
この場はそれ以外にもテンポの速い早替りがてんこ盛り。

座席の位置のせいもあり、私が座っている場所からは、
花道で早替りが行われるときには、必ずいつも、どどどどど、、、と猪が走っているような
木の板の上を役者さんが走る猛烈な足音が裏から聞えていました。
(おそらく桟敷の下かどこかに移動用のスペースがあるのではないかと思われる。)
勘三郎が走っているのか、相手を務める役者さんが走っているのか、
このあまりにすごい魔術を解明する余裕すらない私にはわからないのですが、
歌舞伎座のサイトで、勘三郎が、
”この役は、体が思い通りに動くうちにやっておきたい。”というような趣旨のことを
語っていましたが、そう言うのも無理はない、大変な作品だと思います。
舞台の上もさることながら、私達観客に表立っては見えていない部分でも、
ずーっと動きっぱなしなはずですから、、。

しかも、マジックの世界のように、単に着ているものが変わればいいだけではない、
そのうえに各キャラクターを演じわけなければならないわけですから、その苦労が偲ばれます。
しかし、勘三郎がすごいのはさっきまで血相変えて走っていた正助だったはずが、
今や涼しい顔で悠々と歩いている三次になっていること。
いやいや、本当にすごいです。

<大詰めを含む後編に続く>

歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎

『お国と五平』
谷崎潤一郎 作
福田逸   演出
坂東三津五郎 (池田友之丞)
中村勘太郎 (若党五平)
中村扇雀 (お国)

『怪談乳房榎』
三遊亭円朝 口演
實川 延若  指導
中村勘三郎(菱川重信・下男正助・蟒三次・三遊亭円朝の四役)
中村橋之助 (磯貝浪江)
中村福助 (重信妻お関)

8月18日 第三部
歌舞伎座 1階西桟敷1

*** 歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎 お国と五平 怪談乳房榎 ***

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4 コメント

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中編が増えてますね (みやび)
2009-09-11 12:25:33
楽しみにしていたもので、昼休みにこそこそ読んでしまいました(笑)

>そしてその隙間にお菓子を売るコーナーまで、、。
>世界のオペラハウスをはしごしても絶対にお目にかかれなさそうな、
>この駅ビルのような雑多ぶり、この何でもあり!の節操のなさが、
>貪欲に色々なものを吸収して発展していった歌舞伎というアートフォームとシンクロしていて微笑ましい。

「貪欲」を一瞬「食欲」と読んでしまいました(爆)そう、食事とお菓子、重要です!
国立劇場でも歌舞伎上演はありますが、この感じがなくって、やっぱり歌舞伎座でなくっちゃ…と思ってしまうのです。

>江戸が舞台でありながら、どこかこってりとした芝居であるのが特徴なのだとか。

実はこれが、私には良く分かりませんでした…あんまり上方風な気がしなかったのですが、それは役者が江戸っ子揃いだからなのか、早替りのスピードに
気を取られるせいなのか…私に見る目がないからなのか…。

>あと、福助は、実際、結構背丈があるんでしょうか?

玉三郎が売り出したころは、背が高いのが欠点、とずいぶん言われたということですが、いまや玉三郎程度の背丈の女形はめずらしくありません。不思議なもので、若い世代はたとえ顔が親に似ていても体型が違います。背が高く、顔が小さい。
TVドラマなんぞに出ているとそうは思わないですが、歌舞伎の舞台に戻ってくると、親や祖父の世代と並びますから、明らかに違います。
なので、福助も最近は大きいのが目立たない(周りも、相手も大きい)のですが、勘三郎と三津五郎は小さいので、ちょっと目立ちますね。

私も通ではないのでよくわからないですが、今月も福助は歌舞伎座に出ていまして、振袖姿の娘役ですのでもう少し高い声を出しています。ただ、「女形の声」って、知らない人が思っているほど「女のような声」ではないですよね。慣れてしまったので違和感を感じないのですが、やっぱりぎょっとするものなのですね。
声がどうでもいいわけではないのですが。あぁ、勘三郎の女形はかなり「声が残念」です。

>歌舞伎でのそれは、まさに”合いの手”で、役者の言葉のやり取りの間に
>すっ、と差し入れなければならない。
>つまり、よく作品とその台詞並びをしっていないと、
>役者の次の台詞に重なってしまうという恐ろしい危険を含んでいるのです。
>恐るべし、歌舞伎。

歌舞伎の掛け声=「大向こう」は、これが悪いと雰囲気ぶち壊し、ですよね。掛ける方も声が良くないと!ヘンなところで掛けたり、声が悪かったりすると、顰蹙を買います。
「大向こう」というくらいで、3階や4階席からかかるものなのですが、この席は花道がほとんど見えないんです。なのに、花道に役者が出てきたタイミングで(花道への入り口に幕がありますが、あれが上がると「チャリン!」と音がする)声がかかるというのも凄いと思います。
顔が見えないうちに声がかかるわけですから、間違えたりしないのだろうか…と思うのですが、間違えないんですね。

>橋之助、私はこれまで爽やかな人と思っていましたが、
>この冷酷な役を自然に演じているのを見ると、考えを変えなきゃな、と思えて来ました。

すばらしい褒め言葉ですね。でも、お考えは変えずに大丈夫だと思います。1部も2部も「善人」でしたから(笑)
返信する
こっそり増殖 (Madokakip)
2009-09-12 04:13:03
 みやびさん、

>中編が増えてますね

そうなのです、こっそり増殖です(笑)。
書いているうちにあれも、これも、となってしまいました。

オペラもそういう部分がありますが、
歌舞伎はある意味もっと、歌舞伎座の雰囲気、施設、
食べ物、舞台機構、全部を合わせて楽しむものだと思いました。
なんだか、縁日に行っているみたいですごく楽しかったです。

>>江戸が舞台でありながら、どこかこってりとした芝居であるのが特徴なのだとか

これ、私もプログラムに書いてあったのを、
”そっか、私は他の作品を観たことがないから
よくわからないけど、
これはこってりなんだ、、”と思ってコピペしましたが、
実は自分の感覚ではそれほどこってりしているようにはあまり感じなかったですね。
”なのだとか”という部分にその気分を表したつもりです。
上方の人間は普段からもっとこってりしてますけど、、という。

背丈の疑問にもお答えいただきありがとうございます。
そうか、福助が特に大きいわけではなくて、
三津五郎や勘三郎が小柄。確かに!

>あぁ、勘三郎の女形はかなり「声が残念」です

彼も女形をするのですね、知りませんでした。
勘三郎は少し舌が短いのか、それとも喋る時に少し下あごが前に出てしまうのか、
やや舌たらずな喋り方に私には聞こえます。
それが正助の役にはぴったりでしたが。

ずっと女形って甲高い声を出すのかな、と思っていたんですよ。
なので、福助の割と男のまんまの発声にはちょっとびっくりしましたが、
(おかまみたい、、と、、)
おっしゃるとおり、慣れてしまえばこんなものだ、と思うようになるのかもしれません。

玉三郎は絶対に一度生で観てみたいんですよね。
彼の舞いをDVDで見た時は、全然舞いのことがわからないこの私があまりのすごさに大ショックを受けた次第です。
あのDVDは今は同じく大感銘を受けた連れに奪われ行方不明中です。

>この席は花道がほとんど見えないんです。なのに、花道に役者が出てきたタイミングで(花道への入り口に幕がありますが、あれが上がると「チャリン!」と音がする)声がかかる

確かにあそこからじゃ見えないですよね、、
ってことは音だけでもって声を掛けているということ、、
すごい、、。
しかも、まるで掛ける声すら芝居の一部になっているかのような
タイミングのよさ。
おっしゃるとおり、変なタイミング、変な発声で
声を掛けた日には彼らに嬲り殺しにされそうな雰囲気が漂っていました。
あの、ちゃりん!という音も素敵ですよね。
なんか異世界のような音だと思いました。

>橋之助
>1部も2部も「善人」

ちゃんとさわやかキャラも残していらっしゃるようで安心しました!
返信する
一人で騒いでます (みやび)
2009-09-12 17:12:05
なんだか申し訳ないですが…スカラ座の来日公演にまだ行っていないので、皆さんの輪に加われなくて(爆)

オペラ・ヘッズのMadokakipさんの声に関するご意見、とても興味深いです。もっとお話を伺いたいところですが、それは次回にとっておいて(まだ続けるのか?私)

>玉三郎は絶対に一度生で観てみたいんですよね。

玉三郎、絶対に観て下さい、いや、観る「べき」です!できれば「鷺娘」を…。「鷺娘」や「娘道成寺」は歌舞伎座ではもう踊らないかも、というようなうわさにもなっていますので(歌舞伎座の興行で20~25日毎日踊るのが体力的にきつくなってきている、ということのようです)、機会があったら逃さないようになさって下さい。
玉三郎の舞踊(舞と踊りの区別がつかないのでこうやってごまかす)はバレエ・ダンサーのファンも多いようで、その縁なのかベジャールの振り付けで踊ったりもしています。そういった経験も影響しているのか、様式を超えた玉三郎独特の美意識が貫かれていて、この世のものとは思えません!
これは芸として継承されるものではなくて、玉三郎個人のものではないかという気がします。ですから、玉三郎が現役の間でないと観れないもの、だと思います。
素人の私が言っても説得力があるかどうかわかりませんが、素人をここまで感動させるものがある!ということです!

ついでですが、実は玉三郎の他にもう一人、私が好きな踊り手が勘三郎なのです。
私はどうも、耳が悪いのか集中力に欠けるのか、清元や義太夫の詞章が聴き取れないことが多いので、どちらかというと踊りよりも芝居の方が好きなのです。バレエのように、最初から「言葉」がついていなければそれはそれでOKなのですが…。
なので玉三郎を除いては舞踊になるとつい睡魔が…という感じでした。それが、勘三郎襲名披露で、当代勘三郎が踊った「京鹿子娘道成寺」では、踊りを観ていたら突然長唄(だと思う)の詞が聞こえてきて吃驚しました!何というか、ここには物語りがあって、人の感情があって、それを踊っているんだな、というのがはっきりわかった感じがしました。
勘三郎の踊りの上手さは、早や替わりの速さや、立ち回りで決まった時の形のきれいさ、などにも表れていると思います。

全くタイプの違う二人ですが、仲が良く共演も多いのが不思議なところです。孝・玉コンビは背丈も合うのですが、勘・玉だと勘三郎の方がだいぶ小さいので玉三郎が苦労するように思うのですが、なんか合うみたいですね。
返信する
どうぞ、どうぞ!! (Madokakip)
2009-09-14 09:03:06
 みやびさん、

>一人で騒いでます
>まだ続けるのか?私

もう、遠慮なく、どこまでもどうぞ、どうぞ!!
ここは、オペラ・ブログのせいもあり、
私も含め、歌舞伎はオペラほどにはご覧にならない、という方がたくさんいらっしゃるのでしょう。
でも、みやびさんがコメントを下さるおかげで、
私もとっても勉強になります。

>玉三郎、絶対に観て下さい、いや、観る「べき」です!

そうですよね、やっぱり!
悔しいのはうちの両親はちゃっかりと機会があると、
玉三郎が出演する興行を観に行っていることです。
そして、いかに素晴らしかったというのを、
私に滔々と語るのです。
悔しい。

勘三郎の踊りの上手さは連獅子のときに感じました。
歌とか踊りというのは不思議ですね。
詳しくわからなくても、良いものというのは、
理屈を超えて心に訴えてくるものがあります。
返信する

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