Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

妙なる音と共に 筑前琵琶のしらべ (Sun, Aug 16, 2009)

2009-08-16 | 演奏会・リサイタル
会社勤めの身としては、なかなか一週間以上のお休みを頂くのは難しい。
今では東京に住んでいる親しい友人の方が数が多くなったこともあり、
今回の帰省の旅(というのは表の姿で、
実際はデヴィーアのマスター・クラスを聴講する旅だったりするわけですが。)は、
その東京と実家のある京都を日程上2:1にわけて過ごすことにしました。
その結果、京都への帰省は東京から・への移動日を含め3日、
つまり、京都に完全フリーでいられるのは、
中たった一日というスケジュールになってしまいました。親不孝もの!

で、このスケジュールですと、京都で夜ご飯を食べるチャンスは二回あることになるわけですが、
その一回は、子供の頃から高校生の終わりまで10年以上、家族で通い続け、
もはや、おいしいのどうのという言うレベルを越えて、
私の子供&青春時代ここにあり!とまでいえる近所の某焼肉屋に行きたい、と両親に宣言しました。
今だその店が存在しているということが嬉しい。

で、残りの一回は、私は何を隠そう、実は超がつく和食党で、普段、おいしい和食に飢えているので、
両親に場所はお任せで、絶対に京都のおいしい和食を!とリクエスト。
(NYでも、まあまあの金額を出せばおいしい和食は食べられるのですが、
最近、一回食べるのやめたら、オペラがもう一回見にいけるよな、というような感じで、
メトの一席分のチケット代が、生活の中での1通貨単位になりつつあります。名づけてMadokakipドル。)

それから、もちろん、元祖オペラヘッドである、私のおばも参加で。
私のおばは、あのイタリア歌劇団を生で体験したことのあるMadokakip家の元祖オペラヘッドで、
そのイタリア歌劇団の公演を観るために、夜行で大阪から東京に一人で上京していたという、
生まれる時期が違えば、それ、私のこと?と勘違いしてしまうような人です。
学生の頃からオペラが好きだったそうで、
終戦後しばらくは新しいオペラのレコードなんてなかなか手に入る雰囲気ではなかったので、
お互いが家にあったオペラのレコードを持ち寄って、
それでいろいろな作品をみんなで聴く!という会があり、それにも参加していたらしく、
おばはその時に、家から『椿姫』のレコードを持参した記憶があるそうなのですが、
一体、誰がヴィオレッタを歌った盤なのか、とても気になります。
ちなみに、イタリア歌劇団の公演とは、、、
1956年から20年間、8回にわたって日本で行われたオペラの公演で、
主にイタリアから招聘した歌手がN響の演奏と日本側がセットした舞台にのって歌った。
この公演で初めて世界レベルで活躍するオペラ歌手の生の声を聴いてぶっとんだという人が多く、
今の日本のオペラヘッズの原点となっている重大事件。
公演の時期がオペラの黄金時代に重なっていた幸運で、舞台にあがったのは、
デル・モナコ、テバルディ、ゴッビ、シミオナート、スコット、ベルゴンツィ、クラウス、
コッソット、ギャウロフ、カプッチッリらを含む、ものすごい面子で、
公演のDVDは日本で発売されているのはもちろん、
アメリカではVAIという会社がディストリビューターになっていて、新しい演目がリリースされるたび、
こんな公演がかつて日本で企画されていたということも
それまであまり知らなかった米系ヘッズの間で、話題の的となっていた程です。

さて、この京都で食べる和食の日が、デヴィーアのマスター・クラスの日付の関係や、
帰りの飛行機などとの兼ね合いで、たまたま8月の16日になったのですが、
”お盆だから料亭の中には休んでたりするところもあるのかしら?”などと、
一瞬考えただけで、そのまま深く考えずにいました。

しかし、実家に到着し、母に、
”ところでどこで食べることになった?お盆だからお店見つけるの、大変だったんじゃ、、?”と聞くと、
”何言うてんの、あんた。京都は16日はかきいれどきやんか。大文字もあるんやから。”と、
これやから外国に行った人はかなんわ、という口調で切り返されてしまいました。

あら、やだ、本当!!! 8月16日は五山の送り火の日ではないですか!!!
完全に忘れてましたよ。京都人失格!

”そやからな、このお店に行くんやけど、特別にこんなイベントがあるみたいやねん。”と、
母がおもむろに引き出しから取り出した招待状のようなもの。
それは16日に食事する予定の料亭から送られてきたもので、そこには、
”妙なる音と共に 琵琶筑前のしらべ”と銘打った琵琶の演奏が行われる旨が書かれていました。
なので、ふーん、ご飯を食べる間、琵琶がBGMとして流れているのか、くらいに思っていたのです。

この料亭は右京区の鳴滝にあるお店で、予定の時間よりも少し早めにタクシーを駆ってしまったので、
(そう、うちは家族そろってタクシーを駆るのが好きなんです。)
父が途中で、”山の裾でタクシーから降りて、歩くのもなかなかいい感じなんやで、ここは。”と言い出したのですが、
いやー、”いいよ、このままタクシーで。”と言っておいてよかった、、。
なぜならば、私は坂のことを山なんて言ってまたお父さんは大げさなんだから、と思っていたのですが、
いや、実際、それは”山”でした。
特に、料亭の正門に上がる最後の傾斜がきつい。こんなの、ワタクシ、絶対歩けませんから。

しかし、その高台からの眺望は本当に美しく、その景色の良さから、
このあたりは元々昔の裕福な方の別荘地として開かれた土地と見え、
ちょっとしたお屋敷街となっています。
実際、この料亭が入っている敷地は、かつて、ある呉服商が客人を持てなす為に作った別宅だそうです。
美しい門構えから、日本風の庭園を抜けたところに、芝生のお庭があって、
ちょっと明治のお屋敷チックな、和洋折衷の雰囲気があります。

建物もそのコンセプトを継いでいるのでしょうか?
奥の間は純和式なのですが、ロビーにあたる空間は洋式で、その隣に続く比較的小さめのお部屋も洋式。
普段はもちろん普通に予約時間を聞いてくださるお店なのですが、
今日は五山の送り火があることもあって、全客同一時間に食事が出されるという、会食形式になっているため、
予定時間前にはかなりの数の客が敷地のあちこちでうろうろしているので、
このどこか土サス(土曜サスペンス劇場)に登場しそうな”金持ちの家”的建物の雰囲気もあいまって、
”この中の誰かが、大の文字に火がついた瞬間、殺される!”と妄想してしまうMadokakipなのでした。

どうやら、まず初めに琵琶の演奏があって、その後、丁度、食事が始まった頃に、五山の送り火が始まるようなタイミングになっていて、
それはもうこの高台で、視界を遮るものは何もなく、真正面が大の字というロケーションですから、
ご飯を食べながら大文字を楽しむ、というかなり楽しいイベントです。
そのためか、新幹線で駆けつけた、という人も中にいて、
”10時半の新幹線に乗らなきゃいけないんですが、、”と、
帰りのお車の手配の必要の有無を聞いて回ってくださっているおかみさんに、
(まあ、暗がりのなか、あんな坂を降りようとしたら、
転がって怪我してしまいますので、帰りこそは絶対にタクシーが必要です。)
”一番早いタクシーを回してください。”と頼むずうずうしさを見せていました。
まあ、わかるんですけどね、、でも、こういうのはオペラと一緒で、
ゆっくりと味わうところに楽しさがあると思うんです。
公演が終わったら拍手もせず立ち上がって帰り支度を始めるオペラの客と同様、
こういうのは、私、あまり好きではありません。



夕方の6時。
いよいよ、和室の大広間に客が呼ばれました。
ぎっしり敷き詰められた座布団。
そう!食事の間のBGMなんかではなく、それこそ、『耳なし芳一』の世界も真っ青、
演奏者の方に対峙し、それも正座で、じっと演奏を聞かせて頂くスタイルなのです。
私はあの『耳なし芳一』の、壇ノ浦の合戦が琵琶にのせて語られるのにのせて、
平家の亡霊たちがもらい泣きする場面が好きですので、
私も亡霊の一人になった気分で泣かせて頂けるのだわ!と思うとわくわくして、
つい、みんな遠慮して座ろうとしないために空席になっている、
演奏者の方のど真ん前、最前列の座布団に座ってしまいました。
隣は元祖オペラヘッド。ああ、やっぱり血は争えない、、。

琵琶というと、演奏するのは頭がつるぴかの坊さん(耳なし芳一のイメージ?)か、
もしくは盲目のおじいさんかと思っていたのですが、
登場されたのは私よりも少しお若いのではないかと思われる年代の、素敵な女性の方でびっくり。
全然芳一じゃない、、。
お名前を高橋旭妙(きょくみょう)さんとおっしゃって、
8歳から琵琶を習い始め、琵琶の世界で唯一の人間国宝であった故山崎旭翠氏に師事されていたこともあるそうです。

プログラムの一曲目は源氏物語から”夕顔”。
まず、高橋さんの発声にびっくり。
もちろん、目の前に座っているからというのもあるのですが、それだけではない。
オペラとは全く違う発声法ながら、びりびりびり、、とお部屋を振動させるような、物凄く力強い声!
オペラの発声に慣れていると、すごくスタイルが違うので最初は驚くのですが、
よく聴いているうちに、この声は一体どうやって作られているのだろう、、?と、
すごく興味が湧いて来てしまいました。
一つ言えるのは、デヴィーアのマスター・クラスの時にふれられていたような、
マスケラで響かせるような、そういう音ではないということです。
ただし、喉声とも違う。
強いていえば、お腹の底から出てきた空気をあまり頭で響かせないでそのまま出しているように聴こえるのですが、
この発声法は本当、私には謎で、興味がつきません。

そして、それに負けず力強い琵琶の響き。
今日演奏して頂いた作品もそうなんですが、琵琶の作品というのは根底に”語る”ということがあるように思います。
音楽も演奏も、ひとえにその物語を聴き手に伝えるために存在している、
その意味では、非常にオペラに似ていると思います。
そのせいでしょうか、私は普段、邦楽(浜崎あゆみ的邦楽ではなく、日本古来の邦楽です)を聴くことがほとんどないので、
この演奏は退屈でたまらなくなるのでは?と内心心配していたのですが、
とんでもない!!! 物凄く楽しんでいる自分を発見して嬉しくなりました。

もう一つ心配だった理由は言葉。
字幕があるわけでもないですし、歌舞伎のDVDなんかを見ても
”何を歌っているのかさっぱりわからん、、、日本語なのに、、。”
ということが一度や二度でない私は、
源氏の夕顔は知っている話だからまだ救いがあるけど、
それでも、一語一語何を言っているかまではわからないだろうなあ、、と思っていたのですが、
それが高橋さんの歌だと、本当に一語一句、一つ一つの音まで、何が歌われているか、わかるのです。
おかげさまで、音楽的側面と共に、歌詞の方も存分に味わわせていただきました。

かように、琵琶の演奏とはこんなものなんじゃないか?という思い込みがことごとく打ち砕かれ、
あれ?琵琶ってこんなに聴きやすいものだったんだ!という発見があったのはこの日の一番嬉しいことでした。

琵琶の演奏が物を語るということを中心に据えていることは、
音色の使い方にもあらわれています。
ばちで音を出す方法にも、本当に色々あって、その一つ一つが、その場面を的確に表現、描写するために
練り上げられていったものであることがよくわかります。

”夕顔”は、現在、源氏からの寵愛真っ盛りの夕顔が、
もはや源氏からまめに顧みられなくなってしまった六条御息所の生霊に取り殺されるというストーリーなわけですが、
源氏と夕顔が愛を交わした後、ろうそくがふっと消えて妖気が漂い始める場面の印象的な琵琶の音の使い方とか、
六条御息所の霊が夕顔の髪をひっつかんでなぶり殺そうとしている様が目に浮かぶような激しくかき鳴らす場面など、
楽器としての表現力の幅の広さも驚きでした。
ただ、そこには六条御息所は本来は優しい素敵な女性でありながら、
嫉妬の気持ちが蒸留されて、それが生霊となっている、
そのバックグラウンドを知っていることで、一層、語られている内容や演奏に奥行きを与えることになるので、
ある程度、基本的な日本の古典文学の知識があった方がよいのは間違いなさそうです。
今回は、源氏物語や平家物語の、それぞれ最も有名な場面の一つが取り上げられたのでまだいいですが、
私は全くそのあたりの知識が不足がちなので、もっと読書をせねば!と自分を顧みるいい機会にもなりました。

約15分ほどの作品だったでしょうか?あっという間に時間が立ってしまいました。
ここで、高橋さんは一旦休憩を兼ねて部屋から下がられ、
お茶と和菓子が配られました。
元祖オペラヘッドである叔母と、ひとしきり、声の迫力について二人で議論。
やっぱりオペラヘッドは声から入るんですよね。

前半のプログラムは通常の着物姿での演奏でしたが、後半のプログラムのために現れた高橋さんは、
紗のような薄く、白い上着を着物のうえにつけて登場。
(下の写真参照。ただし、この写真に限っては、今日の演奏会で撮影されたものではなく、
高橋さんがあるお寺で演奏された時のものです。他の写真はすべて当日に撮影しました。)



そして、演奏に入る前に、少し琵琶のことについて話してくださいました。

琵琶はアラビアのウードと呼ばれる楽器がルーツとされており、
日本では少なくとも7世紀の奈良ですでに演奏されていたことがわかっています。
琵琶の二大メイン・ストリームは薩摩琵琶と筑前琵琶の二つ。
歴史が古いのは薩摩琵琶で、薩摩盲僧琵琶の流れが発展していったもので、
一般的に男性的と形容され、それは琵琶自身の胴の部分が、桑の木にさらに桑をはったものであることにも起因しています。
桑は丈夫な木材なので、ばちで激しく演奏しても耐えられるようになっているからです。
一方、越前琵琶は、比較的はっきりとした派として存在し始めたのは新しく、
明治頃が起源と言われています。
薩摩琵琶に対して女性的と形容される越前琵琶は桑に桐の木を貼っていて、
桐は桑よりも繊細な木材なため、自然と、薩摩琵琶のような演奏は不可能となり、
違った独自のスタイルの演奏を生み出していきました。

ばちには現在つげが使用されていますが、昔は象牙で出来たものもあったそうです。
弦は絹の糸のみを使用しているそうです。
現代では金属やナイロンといった材質を使用している弦を使う楽器が多いですから(ヴァイオリンも、ギターも、、)
これは結構意外でした。

また、オケの弦楽器のような絶対的なチューニングという概念がなく、
(それぞれのオケでピッチが多少違うといった細かい問題はここでは抜きにして、、)
演奏家の声に合わせた、言ってみれば、相対的なチューニングを行うそうで、
これもオペラで絶対的なチューニングの概念に
どっぷり浸かっている私にはとても面白く感じられました。

琵琶の演奏というのは、もともと鎮魂歌としての役割を果たすものだったそうで、
(平家物語の壇ノ浦といった演目にそれは現れています)、
今日のようにお部屋で演奏というのもなくはないのですが、
本来の目的に叶い、最も一般的な演奏場所としてあげられるのはお寺だそうです。
そういったよりフォーマルな場では、後半に身につけられた白い上着をつけるのがならわしで、
いってみればこれが琵琶奏者の方の正装姿なんだそうです。
オケで言うと、タキシードにあたるものなのかもしれません。

で、後半の演目はその平家物語の”壇の浦”。
目の前で夫が戦死するのを目にする妻や子供、
そして、平家側の完全な負けを悟り自害する人々、、そんな平家の滅亡の様子に、
世のはかなさ、無常を描いた、説明も要らないほどの有名な場面です。

すっかり琵琶の演奏にとりこになった私はもう平家の亡霊気分で座布団に鎮座しています。
演奏、お願いします。

いやー、これはさすがに名場面の名曲だけあります。
琵琶というのは、前半の”夕顔”の時にも感じたのですが、
生霊が人間を取り殺すとか、激しい争乱の描写とか、こういった激しい場面を表現するのにうってつけの楽器だと思います。
私のイメージでは琵琶というのは、びよ~んっ!とどこか薄ら悲しい音をたてるものだと思っていて、
それはそれで味わいがあっていいのですが(もしや、それが薩摩琵琶なのか、、?)、
この高橋さんの筑前琵琶の演奏はもっとしゃきっ!としているというか、モダンな感じがします。
そうそう、後半のプログラムが始まる前のお話しの中に、
高橋さんが、先生の前で”夕顔”を演奏したら、
”よう弾けてるけどな、もっと本当の恋をせなあかんで。
そやないと、夕顔が源氏にしなっと寄りかかるところの味わいとかがでえへんから。”と言われたそうです。
物語を本当に演じつくすのは、本当に一生掛り、
人生が歌や演奏となって現れるのは、琵琶もオペラも一緒だなあ、と思います。

私には正直、”夕顔”で何がその先生のおっしゃるように不足しているのかはよくわかりませんでしたが、
高橋さんの声、表現方法は、平家物語のような作品の方でより生きるような気はします。
戦いの場面の迫力、これはすごいものがありました。

しかし、いきなりばっちん!というすごい音。
見ると、なんと一番高い音域を受け持っている弦が切れてしまいました。
残りの弦でカバーできるよう、歌い、かつ琵琶を演奏しながら
一生懸命伴奏のない部分で、残りの弦のチューニングを変えようとする高橋さんですが、
それは至難の業、、。
結局、主に一番低い弦でのみ伴奏をつける方法に切り替え、後は歌で乗り切られました。
こういうアクシデントで気が沈んでしまうのではなく、
一層歌に力が入るところに、高橋さんのガッツを感じます。
最も曲が盛り上がったところでしたので、ちょっと残念ですが、
絹の糸は湿度に極端に弱く、この日も演奏前に弦を張り替えて望まれたそうなのですが、
あまりの京都の湿度の高さに弦がぷっつんしてしまったようです。

こちらは20分あまりの曲だったと記憶していますが、いずれもあっという間に時間がすぎてしまいました。

演奏が終わり、食事が用意される間、ロビーでたむろっていると、
6名ほどのおばさまのお友達グループがかしましく、
今聴いたばかりの琵琶の演奏についておしゃべりしておられるのが聞こえてきました。
”薩摩が女性的で、そんで、桑と何の木をつかっているんだっけ?”
”桐よ、桐。”
だめだ、こりゃ。一生懸命説明してくださったのに、全然話を聞いてない、、。

それ以上彼らのお話を聞いていると、せっかく憶えていた内容が滅茶苦茶にされそうだったので、
外にでてお庭で涼んでいると、ちょうど高橋さんが出て来られて、
少しお話させていただくことができました。

発声に関しては、どこから出ているということが自分でも意識しにくいのだけれども、
オペラ的発声とは違うことは確かで、というのも、オペラ的発声で琵琶のレパートリーを歌おうとすると、
支えがとれなくてふらふらし、非常に歌いづらいそうです。
ただ、風邪をひいていても、歌い始めると全く関係なく声が出てくるので、
喉を使っているわけではないことは確かなようです。
また、特にお寺で歌った場合、音がよく反響するので、さらにダイナミックな歌が聴けるとおっしゃっていました。
しかし、今日、最も心配だったのは、
私のいる座席に歌う勢いで唾がとばないか、ということだったそうです(笑)。

レパートリーは百単位の数であるのですが、結局、よく演奏されるのは、
そのうちのいくつかになってしまうそうです。(その点はオペラと同じかもしれません。)
筑前琵琶は比較的歴史が浅いので、今日演奏した”壇の浦”は明治の作曲、
”夕顔”にいたっては昭和の作品だそうです。

琵琶を習ってみたい、という方がいればぜひ、というお話が演奏中にあったので、
NYに先生はいらっしゃいますか?と伺うと、高橋さんが所属されている橘会に限っていうと、
西海岸には昔師範の方が住んでいらっしゃった絡みで当時の教え子の方たちがいらっしゃるのではないかと思うのですが、
残念ながらNYはちょっと聞かないですね、というお答えでした。
うーむ、残念。

楽しませて頂いたお礼を申し上げ、室内に戻ると、いよいよ食事が出そうな気配。
全員ではかなりの人数で給仕が一斉だったため、仲居さんはかなり大変そうでしたが、
おかげさまで希望どおりのおいしい京都のお食事を満喫しました。
やがて、歓声があがったので何事かと思うと、大の字が点火された模様。

(↓ みみずじゃありません。大の字です!!)



ガラス張りになっていて、まさに食事をしながら外が眺められる洋室組と、
食事に風情は出ますが、障子があるため、座ったままでは直接に送り火を見れない座敷組。
京都以外の土地からいらっしゃった方は洋室、
京都の人は座敷組だったように思われたのは気のせいでしょうか?
せっかく他の土地からいらっしゃったのだから大文字はその方々に満喫頂いて、
京都に住んでいる輩は毎年見れるんだから我慢せよ!ということなのかもしれません。

しかし、いい音楽、おいしい食事、いい眺め、実に楽しかった。アレンジしてくれた両親に感謝です。


『源氏物語』より
一. 夕顔
(作詞:瀧原流石  作曲:山崎旭翠)

『平家物語』より
二. 壇ノ浦
(作詞:逵邑玉蘭  作曲:橘旭宗)

筑前琵琶 日本橘会 高橋旭妙

*** Kyokumyo Takahashi Music of Chikuzen Biwa 高橋旭妙 妙なる音と共に 筑前琵琶のしらべ ***

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4 コメント

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土着の京都 (starboard)
2009-09-03 01:06:20
Madokakipさん京都の方だったんですね。私も京都(ただし他府県出身でいきなり京都の一番濃ゆいエリアに入ってしまってびっくりというパターン)なものですから、つい親近感を感じてコメントを。
お話に出てくるお寺での琵琶演奏のような土着(?)の文化がすごいですよね。最近オペラにかまけてすっかりご無沙汰でしたが、折角近くにいるんだから勿体無いなと思いました。
返信する
劇場やホールでないところで聴く音楽 (Madokakip)
2009-09-03 11:05:52
 starboardさん、

おお!starboardさんは京都にお住まいでいらっしゃいましたか!

私も実は生まれてから8歳くらいまで大阪だったんですよ。
なので、それはもう引っ越してからいじめられましたよ(笑)
毎日、毎日、”さかもん、さかもん”と言われて、、。
そんなことが10日くらい続いたある日、
また大阪の出身だというだけで人間失格くらいのことを言われたので、
気が付いたら頭のヒューズが飛んで、
クラスメートを煽っていた一番のガキ大将(男子)にとびかかり、
手の指10本の爪全部を使って彼の腕から血がにじむまでひっかいてました。
ぶちきれた彼に全く同じことをされたのですが、
頭に血が上っていたせいで、涙ひとつこぼれなかったんですね。
翌日から私をさかもん呼ばわりするクラスメートはもう一人もいませんでした。
気違いはほっといたほうがええわ、って、、(笑)
でも、その後はすぐにお友達も出来て、
特に高校はすごく楽しかったです。
公立の高校でしたが、すごくユニークな先生が多くて、
教科書から外れたことまで、色々教えてくださる先生が一杯いたんですよ。
数学はアートである、というような高度なことを、
全然訳がわからずぽかんとしている高校生(私も)を相手に
一生懸命熱く語ってくださる、
そういう素敵な先生がいっぱいいらっしゃいました。
あの高校なら今からもう一回繰り返してもいいな、と思います。

>お寺での琵琶演奏のような土着

そうなんですね。
オペラやクラシックのコンサートなど、
通常は劇場やコンサートホールで行われますよね。
野外なんていうのもありますが、それはそれで、
イベントとしてあえてそうしているわけで、、
なので、お寺で演奏することが普通である、というのは私にもすごく新鮮でした。
機会があれば、ぜひ一度ご覧になってみてください。
返信する
お寺で音楽体験 (starboard)
2009-09-03 17:34:18
なんてMadokakipさんらしいエピソード....「さかもん」とか「しがさく」とか、京都のちょっと郊外を「鬼の棲むとこ」「あんなとこよう行かん」呼ばわりしたり、「ちょっと違う近いもの」に厳しいですよね、京都の人は。

以前にお寺での音楽イベントなどをさせて頂いてたことがあり、今は切れているんですけども、コンサートなどではあり得ない、なんともいえない独特の雰囲気には惹かれます。私が聴いて一番印象深かったのは、あのモンゴルのホーミーの演奏でした。日本へのサービスでラストに赤木の子守唄をやってくれたんですが、民族楽器が出す哀愁たっぷりの、下手すると安キャバレー一歩手前の音楽と、ホーミーの神がかり風の音、奏者の金襴風織物のアジアンゴージャスな衣装、背景のお寺とのミスマッチで、もう何と言っていいのやら。目と耳に焼き付いてます。すごい秘境に行って、商業化されてない民族音楽に触れた感覚に近いものが味わえました。

せっかくだからこちらでちょっと紹介させてください。一見さんでも行きやすいのは法然院さんだと思います。http://www.honen-in.jp/N-0200-J.html
お寺自体も有名で入りやすいですし、情報公開もしっかりしてます。今月26日にも筑前琵琶(尺八・箏・琵琶の王道セット)の演奏があります。特に信仰のことを言われるわけでもなく、ただそこで時間を共有すればいいだけ、日常にそういう時間があればそれでいいというスタンスです。
返信する
面白い試みですね! (Madokakip)
2009-09-04 13:26:57
 starboardさん、

>「しがさく」

すみません、滋賀の方には申し訳ないんですが、
ちょっとおかしくて笑ってしまいました。

>以前にお寺での音楽イベントなどをさせて頂いてたことがあり

そうでいらっしゃったんですか!
ホーミーのコンサート、すごく素敵ですね。
カーネギー・ホールなんかでも、
今、色々な民族音楽も意欲的に取り込もうとしているようなんですが、
やっぱりこういう音楽はかしこまってコンサート・ホールや劇場で聴く時点で、
もうある程度雰囲気が損なわれてしまう、という部分がありますよね。

この法然院の情報、ありがとうございます!
こんな素敵なイベントを催しているなんて、全然知りませんでした。
高校を卒業して東京に出てしまったので、
こういう京都の面白い企画をたくさん見逃したんだろうな、と思うと悔しいです。
まあ、あと、当時はインターネットがなかったので、
こういう情報がなかなか取り出しにくい、というのもありましたね。
いやー、京都にいたなら、この三点セットの演奏会行くのになあ、、。
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