Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

八月納涼大歌舞伎~お国と五平・怪談乳房榎 (Tues, Aug 18, 2009) 後編

2009-08-18 | 歌舞伎
中編から続く>

 二幕目第四場 高田南蔵院本堂の場

(あらすじ:いよいよ重信が龍に目を入れるだけとなった天井絵のために集まった人々。
そこへ、正助が転がるようにあらわれ、重信が殺されたと言う。
しかし、誰もまじめに取り合わない。重信は今、方丈で住職と話をしているのだから、と。
正助は重信がすでに霊となって現れた、とおののく。
やがて住職とともに皆の前に姿を現わした重信は、
龍の目を入れ、笑いを浮かべたかと思うと、煙と共に消えてしまう。)

この芝居の中で、ドラマ的にはハイライトの一つであるオカルト・シーン。
ここでは、二幕一場で見せた善人かつ優れた絵師と敬われる人間としての重信からシフトして、
この世のものでない雰囲気をかもし出しつつ、心に浪江らへの復讐心を抱き、
また復讐の成功を確信しているような不気味な雰囲気を漂わせなければなりません。
それを龍の目を入れる場面を使って表現したのはこの作品の上手いところ。

小さい役なのだけれど、住職の雲海を演じた坂東彌十郎が、
登場した瞬間からすでに重信の霊にひっぱられて、
あちらの世界に片足を踏み入れているようなまなざしと雰囲気で好演していました。
彌十郎は本当に大柄で立派な体格なので、
この雲海などは必ずしも大きくある必要はない役かもしれませんが、
他の、ある種の役では舞台で非常に映える人なのではないかと思います。

意外だったのは勘三郎のこの場面の割とあっさりした演じ方で、
もっと無念さを出すかと思ったのですが、そうでもなかった点です。




 三幕目 菱川重信宅の場

(あらすじ:重信が殺された日から百か日。浪江はある種の魅力があるので、
地紙折の竹六もすっかり騙され、お関に、”もう浪江さんんと再婚しちゃえば?”などと言い出す始末。
実は、重信を殺したのが浪江であるとは夢にも思わぬお関は、表向き彼女を支えてくれている浪江に、
菱川の家を継がないか、ともちかけていた。
しかし、赤ん坊の真与太郎にすべてを見透かされている気がする浪江は決心がつかないでいる。
そこで、次は正助に真与太郎を処分するよう言い、
お関の前で真与太郎を里子に出してはどうかと持ちかけた。
里子に出すふりをして正助に真与太郎を家から連れ出し殺害させる算段である。
浪江に逆らえない正助は真与太郎を抱いて出発する。
浪江が一人残ると、三次があらわれ、これを買い取ってもらいたい、と、
重信の殺害現場に浪江が落とした印籠を持ってあらわれた。また、たかり。ちんぴら魂大全開。
浪江は三次を殺そうとするが二人の力は拮抗し、勝負がつかない。
ここで三次を殺すのは難しいと判断した浪江は、
滝に向かった正助と真与太郎を殺害するのも条件で、金を出す。)

中編で福助のお関は上品で、粋で、云々、、ということを書きましたが、
非常に表現も細やかで、この場面では特にそれが光っていたと思います。
というのも、お関が舞台に登場するのは浪江と関係を持ったことが示唆される二幕一場以来なのですが、
この三幕になって、浪江と共に現れた途端、もうすっかり浪江に心を許しているらしいお関の様子が伝わってくるのです。
関係が出来た男女の間特有の慣れあった空気といいますか、、。
そこで、どうやらあの一回だけではなく、この二人はもうはっきり”出来ている”と呼んでもいいレベルに
至っているらしいことが、一瞬にして伝わってくるのです。
なので、竹六の言葉が出てくるときも、”え?そんな事態になっているの?”ではなく、
”ああ、そうなこったろうなあ。”と観客が納得してしまえる。
重信が亡くなったばかりというのに、先の幕より艶っぽくなったお関を見ると、
げに女性は恐ろしい、、と思えてきます。

その一方で浪江を演じている橋之助。こちらもやっぱりとても良い。
色悪というものの、どこか、そうはお関にのめり込んでいなさそうな、
冷淡で自分勝手な様が実に格好よいです。
ただ、さらに後から良く考えてみると、印籠を落とすというどじを踏んでみたり、
実は戦ってみると三次とそれほど腕の覚えに差がなかったりして、
なんだ、それ?ちょっと格好悪くない?とがっくりさせられる浪江なんですが、
そこを舞台が走っている間は深く考えさせず、
格好よさで押し切ってしまうところが橋之助の同役の良さでもあるわけです。

また、この場は、『マクベス』の、自分の起こした悪事が引き起こす、
無意識レベルの罪の意識によって、だんだんと精神の均衡を失いはじめるストーリー・ラインに似ています。
そこの変化をはっきりつけるのも一つの方法かもしれませんが、
私は今回の橋之助のような、最初から浮世と少し離れた世界で生きていそうな、
それゆえに、お関に手をかけても金を盗んでも何事も真の満足に結びつかないような感じのこの役作りが結構好きです。

さっきまで殺し合いをしていた人間(浪江)に、
”じゃ、これまでのことはなかったことにして。この金あげるから、俺のために殺人をしてきて”と言われても(三次が)、
普通、誰がするか!ってなことになりそうですが、ワルの世界には独自のルールがあるのか、
そこは歌舞伎だからか、軽く流していく。面白いな、と思いました。
この二人の闘いのシーンも、二人の身につけている着物の色のコンビネーションの美しさ、
そして動きの美しさもあって(またもヘッズの叫びどころ!)、見所のひとつです。

 大詰 角筈十二社大滝の場

(あらすじ:真与太郎を連れて滝までやって来た正助。
真与太郎を助けたい心はやまやまだが、子連れでは働けないし、今助けてもいつか浪江に見つかって殺されるだろう。
ならば、むしろ、何もわからない赤ん坊のうちに自分の手で、、と滝壺に真与太郎を放り込むと、
真与太郎を抱いた重信の霊が現れる。)

幕が変わった途端、滝のセットから起こる、どーっ!というすごい水の音。
この個所が話題になっているとは聞いていましたが、こんなに大掛かりなセットだとは。
というか、一階正面の最前列のお客さんには水しぶきがとんでました。
現代は色々なテクノロジーがありますのでともかく、昔はこの部分、どうやって演出していたんでしょう、、?



最後はとにかく話の筋よりも何よりも三次、正助、重信の間の、
もう、まさに、めくるめくとしか形容のしようがない、早替りが最大の見せ場なので、
実際、各登場人物が最後にはどうなってしまったのか、私の記憶にないくらいです、、。

特に三次と正助が滝の中、殺そう、または殺されてたまるか、と、
くんずほぐれつになりながら、もちろん、早替りで死闘を繰り広げる場面は圧巻です(上の写真)。

今回、重信、三次、正助というスタンダードな三役に加えて、
最後に円朝がエピローグのようなものを語って幕、となるため、
”勘三郎四役早替りにて相勤め申し候”となっているのですが、
この四役目を一緒に数えるのはちょっと苦しいところもあるかもしれません。
落語家の衣裳で出て来るのですから、ああ、これは円朝なんだな、ということが
私もすぐわからなければいけなかったのですが、
当ブログのコメント欄でご指摘を頂くまで、ずっと、勘三郎本人として喋っているのかと思っていました。
歌舞伎座の一時的なクローズを受けて、”今日いらっしゃるお年を召したお客様の中には、
新しい歌舞伎座をご覧になれない方もいらっしゃったりして、、”などという、
定番の冗談が入っていたものですから。

しかし、それにしても、この作品は本当に面白い!
というか、今まで歌舞伎を一度も見た事がない人でも大興奮すること間違いなし。
こういう作品をこそ、NYに持ってきてほしいなあ。
セットや早替りのような部分ではなくて、
芝居や舞といった、歌舞伎のコアな部分でNYの観客を感心させたい、という気持ちもわからないのではないですが、
まずは歌舞伎が面白い!ということを、
まだ歌舞伎になじみのない人間に知ってもらうことこそ、最も大事ではないでしょうか?
それにはうってつけの演目だと思いますし、早替りだって、歌舞伎が育んできた技の一つとして評価されるはずです。
先にも書いた通り、勘三郎が、”体が動くうちに上演しておかねば”なんて言っているくらいなので、
もう、次回のNY公演にでも早速!!!
本来、歌舞伎を上演するための場所ではないホールで、
歌舞伎座と全く同じ長さの花道を作るのも、
また、早替りのための、移動用の舞台裏スペースを確保する事も頭痛のタネでしょうが、
絶対大熱狂をもって迎えられると思いますし、何より、私自身がもう一度観たいのです!!


歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎

『お国と五平』
谷崎潤一郎 作
福田逸   演出
坂東三津五郎 (池田友之丞)
中村勘太郎 (若党五平)
中村扇雀 (お国)

『怪談乳房榎』
三遊亭円朝 口演
實川 延若  指導
中村勘三郎(菱川重信・下男正助・蟒三次・円朝の四役)
中村橋之助 (磯貝浪江)
中村福助 (重信妻お関)

8月18日 第三部
歌舞伎座 1階西桟敷1

*** 歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎 お国と五平 怪談乳房榎 ***

八月納涼大歌舞伎~お国と五平・怪談乳房榎 (Tues, Aug 18, 2009) 中編

2009-08-18 | 歌舞伎
前編より続く>

幕間に歌舞伎座内の客席エリア以外の部分を探検することにしました。
歌舞伎座の面白いのは、客席エリアと、売店や食事どころなどのある客席外エリアの比率。
後者がすごく大きくて、特に売店ロビーの賑わいはびっくりしました。
メトのギフト・ショップなんて目じゃない盛況ぶりで、売られているアイテムにもびっくり。
歌舞伎の有名なキャラたちに扮したキティちゃんの携帯ストラップ!また何とマニアックな、、(笑)。


(左から雪姫、藤娘、静御前、揚巻、後ろで黒い傘を持って夢中で舞っているのは鷺娘。)

ブリュンヒルデに扮してワルキューレ用鉄兜をかぶったキティちゃん、
アイーダばりに黒塗りになったキティちゃん、
背中に貧乏アパートをしょっているロドルフォ型キティちゃん(ボタンを押すとハイCで鳴く)、
またまた黒塗りで、アイーダとどこが違うんだ!とつい買い手が怒ってしまいそうなオテロ・キティなど、
オペラでも応用が十分効きそうなアイディアではあるのですが、
メトのギフト・ショップでキティちゃんの携帯ストラップ、、、、ちと無理っぽい。

役者さんの舞台写真、これは定番ですが、ふと考えると、昔、メトのギフト・ショップには
現役の歌手のサイン入り写真がたくさん売られていたのに、最近すっかり見なくなったのはなぜなんだろう、、?

さらには、手ぬぐい、のれん、文房具など、
ありとあらゆるところに歌舞伎の登場人物やら隈取といった意匠が印刷された商品で溢れかえっています。
そしてその隙間にお菓子を売るコーナーまで、、。
世界のオペラハウスをはしごしても絶対にお目にかかれなさそうな、
この駅ビルのような雑多ぶり、この何でもあり!の節操のなさが、
貪欲に色々なものを吸収して発展していった歌舞伎というアートフォームとシンクロしていて微笑ましい。
実にはちゃめちゃです。

客席外で圧倒され尽くし、座席に戻ると、いよいよ、後半の演目『怪談乳房榎』の開演です。
前編でも書きましたが、今日の鑑賞は、もちろん作品とお芝居そのものも大いに楽しませて頂いたのですが、
さらに、歌舞伎の世界では当たり前だけれども、他の芸術形態では全然当たり前じゃない、
いろいろな伝統習慣とか上演時の知恵、舞台周りの工夫などで感心させられることが多々ありました。

私は西桟敷、つまり舞台下手側に座っていたせいで、定式幕の開閉の様子がはっきりと見えたのですが、
幕の舞台下手側の端に人が居て、走りながら手で挽いて開けるというのがびっくり仰天でした。
今はそこそこの大きさの劇場なら電動で開閉する緞帳がほとんどですが、
このレトロな感じというのはなんともいえない味があります。
しかも、走り方一つにも美学があるというか、少し前のめりになりながら、
足裏が見えるくらい蹴って走るんですね。
今では上演が始まりますよ、という合図でしかない、幕を開けるという行為ですら、
芝居の一部になっているというのが美しいと思います。

プログラムによると、この『怪談乳房榎』という作品は、明治に創作された三遊亭円朝の落語がベースになっていて、
同じ明治のうちにほぼ原作どおりに歌舞伎化されているのですが、
大正三年に、後の二世實川延若が原作にはなかった三次の役を創作して付け足し、
その三次も含めた、この作品の最大の見所であるといってもよい
早替りのアイディアを盛りこんで現在の上演に至っています。
延若は上方の役者なので、江戸が舞台でありながら、どこかこってりとした芝居であるのが特徴なのだとか。

序幕 隅田堤の場

(あらすじ:赤ん坊の真与太郎と女中を連れて花見をしていた、
江戸で最近評判の絵師菱川重信(早替りの役①)のお関を絡む酔っ払いから救い出した浪人磯貝浪江。
お関が何者かを知った浪江は、重信の弟子になれるようお関に口添えを頼む。
菱川家で下男として働く正助(早替りの役②)がやがてあらわれ、
お関の窮地を助けてくれた浪江にお礼を言い、忙しく立ち去る。
一人残された浪江が何かをたくらむかのようにほくそえむ様子を陰からのぞいた男がいた。
小悪党、蟒(うわばみ)三次(早替りの役③)である。)

序幕では重信のことは語りの中でふれられるだけで、まだ実際には舞台上に登場しません。
つまり、中村勘三郎が初めて舞台に現れるのは正助の役の姿でなのですが、これが実に有効だと思いました。
この作品で最も魅力的な役はこの正助で(ある意味、彼が一番の主役と言ってもよいくらい)、
また、勘三郎の持ち味とも非常に相性が良い。
詳しいことは作品の中では語られませんが、どうやら正助は農民でありながら、
重信の優しい心遣いで下男として菱川家で働かせてもらっているという背景があるようです。
心はやさしいのだけれど、かなりおっちょこちょいのあわてんぼうで、
学がないゆえ、頭が少し緩めの(しかしそれ故に後にとんでもない事態に巻き込まれる)憎めないこの役で、
登場した瞬間から勘三郎が観客の心を捕らえたのがはっきりとわかる、素晴らしい掴みです。

しかし、何と言っても格好良かったのは中村橋之助演じる浪江。
この役は役得もあるかもしれません。いわゆる色悪に類する役で、悪人だけど格好いい。
ワルはワルでも悪の美学がある役です。
オペラで言うと『トスカ』のスカルピアに近いか?
『オテロ』のイヤーゴも悪の美学しているワルですが、
イヤーゴはなぜかあまり色の部分を感じさせないので。
NYに帰って来てから母と電話でこの日の公演のことを話していたら、
”橋之助は三田寛子のだんなやなあ。”と言われて仰天。確かにそうではないですか!
いやー、三田寛子のだんなの橋之助はさわやかな人のような印象がありましたが、この日の橋之助は別の橋之助?
最初に登場する場面で、花道を客席の後方側から歩いてくるのですが、
そのやさぐれた視線で桟敷席を射すくめる眼力は、迫力ありました。
それはもう10年以上も前になるからかもしれませんが、テレビで見た記憶では、
橋之助という人はすごく痩せていて頭も小さく、小柄な人のようなイメージがあったのですが、
なぜか、舞台に立つと大きく(縦にも横にも)見えるし、
頭がこんなにでかかったかな、、と思いました。いや、褒め言葉で。
歌舞伎の舞台は着物をつけているせいだと思うのですが、
頭の小さな西洋人体型より、やや頭部の大きい体型の方の人の方が見栄えがするように思います。
一箇所だけ残念だったのは、浪江がまんまと菱川家に入り込む手ががかりができて、
皆が去った後にほくそえむ場面。
あまりにいっしっし、、と言う感じに過ぎたと思います。
あの登場場面であれだけ眼力で勝負できるのですから、もっと抑えた方が却って迫力が出たと思います。

浪江ほどの大悪でなく、ゆすりたかりで小さく頻繁に稼ぐちんぴら野郎が蟒三次ですが、
ちんぴらながら、明らかに正助のような農民とは暮らしが違うわけで、
プチ小粋(しかし、もちろん浪江ほどには格好よくない。)な感じをうまく勘三郎が出していたと思います。

かように、軽くADDを患っているような落ち着きのないすっとぼけた正助、
ほんの少し涼やかな部分を残した小ずるいちんぴら野郎三次、
そして、重厚な雰囲気の重信と、このキャラの違う三役を早替りさせるところに、
この演目の妙があるのですが、
そのキャラの違いを観客の脳にサブリミナルで植え付ける良く出来た序幕です。

 ニ幕目第一場 柳島菱川重信宅の場

(あらすじ:あれから二ヶ月。浪江はまんまと菱川家に入り込んだ。
南蔵院本堂の天井絵の依頼を受けていた重信は龍を用いた構図を考えつく。
寺からの、出来るだけ早く完成させて欲しい、という依頼に、
愛する妻お関と生まれたばかりで可愛くてしょうがない真与太郎を残し、夜道を寺に向かう重信。
真与太郎に添い寝するお関の寝間に脅しと泣き落としで紛れ込んだのは浪江で、
途中で正助に邪魔をされそうになりながらも、目的を果たす。)

『お国と五平』でお国を演じた中村扇雀は、やや内股でかわいこぶりっこな感じで、
これはちょっと歌舞伎に馴染みの薄い女であるところの私からすると、
あまりに古風な女すぎて(中身はそうでもないくせに!)
”そんな女いないだろう、、”と、若干ひいてしまったのですが、
中村福助のお関は、もちろん役のキャラクターのせいもあるのでしょうが、
わざとらしい女性っぽい所作がなく、それでいて、きちんと女性としての仕草のつぼをおさえていて、
なお、格好良さがあるのが私は素敵だと思いました。
ただ、歌舞伎でちょっとぎょっとするのは、扇雀にしろ、福助にしろ、
女形が仕草は女っぽくしても、声のほうはまるで女っぽくしようとしないこと。
私は女形って、もう少し声のピッチを高くしたりして、女性っぽい声色を作るのだと思っていたのですが、
福助は地声がだみ声気味なのか、仕草はきれいなのですが、
低いトーンで喋る台詞がいつのまにか、
八百屋の”ねえさん、今日白菜安いよ。寄ってって。”に聞えてきます。

あと、福助は、実際、結構背丈があるんでしょうか?
舞台で見ると、女性としてはものすごくでかく見えます。
繰り返すようですが、所作は綺麗なので、なんだか、実際の女性を拡大コピーしたような不思議な感じがします。
この場面は要は浪江が赤ん坊の前でお関を手篭めにするという場面なわけですが、
上手く出来ているのは正助を引っ張り出してきて、その陰惨さを見事に中和している点です。

というか、二人が寝間にいるのに、そのことに気付きもせず、
表立っては助けを乞いたくても乞えない状態におかれているお関が微妙に正助を引きとめようとするに、
間抜けな受け答えでその真意をことごとく測り損ねる正助とのやり取りのせいで、
コミカルな場面に転化されているところが見事です。
最後にふと、”あんな色男(浪江)と一つ屋根の下、二人きりにしておいて大丈夫かな?”と、
そこまで考えておきながら、しかし、更に深く考えることはない。さすが正助です。
一つ屋根どころか、一つ部屋にいるんですけど!

また、浪江がお関に迫る場面が、見得を切る個所の一つで、
突然、動きがスローモーション、かつ、ほとんど型を披露しているような踊りのような動きになったかと思うと、
それぞれが見得を切って、そこで、大向こうからの掛け声がかかる。
しかも、ここだけ、突然さらに時間がさかのぼったかのように、
二人が発する日本語が難しくてよく聞き取れない。
直前の場面までの日本語より、古風な日本語が用いられているのではないかと思います。
ただ、見得を切るほどの場面、つまり大きな見せ場なので、
大体どういうことを言っているかは想像がつくのですが。
かように、いきなり言葉が古くなったり、時間軸が捻じ曲がるかのような、写実度を無視したゆったりとした動きもびっくりなら、
大向こうからの”成駒屋!”等の掛け声にも二度びっくり。
オペラでかけるBravoなんて、度胸さえあれば誰にも出来ますが、
歌舞伎での掛け声は、とてもとーしろがいきなり参加できるような代物ではありません。
だって、その掛け声にすら独特の発声が必要なんですもの、、。
そこには、その言葉を発しつつ同時に”うりゃーっ!”と言っているような、
不思議な響きがありました。
しかも、オペラの場合、Bravoや拍手を誘発するのは、
時にはある決めの一フレーズだったりしますが(『椿姫』のヴィオレッタの”私を愛してね、アルフレード”の後や、
『トスカ』のカヴァラドッジの”勝利だ、勝利!”の後など。もちろん、感動的に歌われれば、の話ですが)
大抵はアリアの後、と、非常にわかりやすい個所にありますが、
歌舞伎でのそれは、まさに”合いの手”で、役者の言葉のやり取りの間に
すっ、と差し入れなければならない。
つまり、よく作品とその台詞並びをしっていないと、
役者の次の台詞に重なってしまうという恐ろしい危険を含んでいるのです。
Bravo/a/iが、素晴らしい歌唱&パフォーマンスだった!という、
観客の気持ちを歌手に一方的に伝えるものだとしたら、
歌舞伎の掛け声というのは、より二方向的なものに感じます。
だから、声もやたらめったら大きくかければ良いというものではなく、
声をかける側も進行している芝居を邪魔しないような、丁度良い声量を心がけているのに気付きます。
恐るべし、歌舞伎。ヘッドは大変だ、これは。

 二幕目第二場 高田の料亭花屋の二階の場

(あらすじ:南蔵院に近い料亭の座敷で一人酒を飲む三次。そこにあらわれる浪江。
この二人にはかつて、お関のおじが遣えていた主家の金蔵を破り、共犯で二千両を奪った過去があった。
その金蔵破りで得た取り分も使い果たしつつある三次は、
菱川家に入り込んでいる浪江に金の無心を始める。さすがちんぴら。
しぶしぶ浪江が金を与え三次を返すと、寺にいる重信に料理を差し入れするという名目で
浪江が呼びつけておいた正助が入れ替わりにやって来る。
これはもちろん浪江のたくらみで、上手く正助をおだてて金を与え、かつ、自分と兄弟の契りを結ばせた後で、
重信が親の敵であったことに気付くにいたったような芝居をうち、
正助に兄として、一緒に重信を討ってくれないか、ともちかける。)

この場の、三次と入れ替わりに正助が入ってくる場面が、最初の見事な早替り。
舞台上にある座敷は実際には二階という設定で、舞台の真ん中に、
一階に見立てた舞台下から階段があがってきており、
例えば私の座っている座席からだと、階段の上から3段ほどが舞台上に見えるようになっているのですが、
三次の衣裳の着物をつけた勘三郎が客席を向いて階段をおり、正助と挨拶を交わしながら姿を消したと思った途端、
正助の衣裳をつけた勘三郎が客席に背中を向けて階段を登ってくる。
あれ?いつ着物変えたの?もしや別人??と思うのですが、
三次はさっきまで浪江との芝居があったから紛れもない勘三郎だし、
今、浪江と向き合っている正助も絶対勘三郎だ。
ということは、あのほんの一瞬で着物が変わったと思うしかない。本当、早替りだ、、。

今日の舞台は勘三郎と橋之助が共に良く、なので、この場は早替り以外の部分もとても見ごたえがありました。
特に正助となって現れてからの勘三郎が本当に良い。
浪江のような極悪人と縁あったばかりにひどい目に会う正助なのですが、
とにかくハイパーなくせに、なぜかいつも半歩遅れているというキャラクターを本当に温かく演じていて、
どんどん不幸に巻き込まれていくのに、どこかその無垢さがかわいらしく、
つい観ているこちらが笑ってしまいます。
そして、なんの罪悪感も感じず彼をどんどん奈落の底に突き落としていく浪江の冷たさ。
橋之助、私はこれまで爽やかな人と思っていましたが、
この冷酷な役を自然に演じているのを見ると、考えを変えなきゃな、と思えて来ました。

 二幕目第三場 落合村田島橋の場

(あらすじ:南蔵院の天井絵の完成も間近。
息抜きに蛍狩りに出てきた重信に浪江が竹槍で襲いかかる。
正助も、元武士出身の重信相手では何ほどの助けにもならないのだが、結局、浪江に手を貸してしまった。
ついに重信の息の根を止める浪江。
恩人ともいえる人物を殺すのに手を貸してしまい、半ばパニック状態になっている正助は、
口外したら殺すと浪江に脅され、菰を被って逃げていく。
夜道をその正助とすれ違う三次。
浪江は暗闇の中、三次を突き飛ばして逃げるが、印籠を落としてしまったため、
正体が割れ、さらに三次に弱みを握られてしまうことになる。)


(重信役に扮する中村勘三郎)

この作品は大詰めの滝の場面が最大のハイライトとして捉えられているようですが、
私個人的には、一つだけ選ぶなら、絶対この場をとるでしょう。
花屋の早替りもすごい!と思いましたが、いやいやこれは!!
正助が我を失って菰を被り、花道を舞台側から客席後方に向かって走り去るのですが、
私のほとんど目の前で、一瞬ぱっ!と正助が宙に跳ね上がったかと思うと、
もう、逆に(つまり舞台の方向に向けて)走っていく三次が勘三郎になっていました。
花屋での早替りはほんの一瞬ですが、二人の姿が見えなくなる瞬間がありますが、
この場面は花道のど真ん中で、隠れるところなんてなにもない、
あらゆる角度からの観客の視線が集中している場所です。
つまり死角がないはず。
しかも、私の席からの距離はものの2メートルほどと言ったところです。
そんな至近距離にいても、一体何が起こったか一瞬わからないほど、
本当に魔術のように二人が入れ替わってしまったのです。
もちろん、これを支えているのは演じている勘三郎や入れ替わる相手方に立っている方の技と鍛錬、
そして、着物の着付けなどを担当している裏方さんの工夫と努力の賜物なのであって、
これを魔術呼ばわりするなんて叱られてしまうかもしれませんが、
あまりに早く、あまりに隙がないので、そうとでも形容するしかないのです。
その見事な早替りに客席からは猛烈な拍手と歓声の嵐。
この花道での正助から三次への早替りが最大の見所ですが、
この場はそれ以外にもテンポの速い早替りがてんこ盛り。

座席の位置のせいもあり、私が座っている場所からは、
花道で早替りが行われるときには、必ずいつも、どどどどど、、、と猪が走っているような
木の板の上を役者さんが走る猛烈な足音が裏から聞えていました。
(おそらく桟敷の下かどこかに移動用のスペースがあるのではないかと思われる。)
勘三郎が走っているのか、相手を務める役者さんが走っているのか、
このあまりにすごい魔術を解明する余裕すらない私にはわからないのですが、
歌舞伎座のサイトで、勘三郎が、
”この役は、体が思い通りに動くうちにやっておきたい。”というような趣旨のことを
語っていましたが、そう言うのも無理はない、大変な作品だと思います。
舞台の上もさることながら、私達観客に表立っては見えていない部分でも、
ずーっと動きっぱなしなはずですから、、。

しかも、マジックの世界のように、単に着ているものが変わればいいだけではない、
そのうえに各キャラクターを演じわけなければならないわけですから、その苦労が偲ばれます。
しかし、勘三郎がすごいのはさっきまで血相変えて走っていた正助だったはずが、
今や涼しい顔で悠々と歩いている三次になっていること。
いやいや、本当にすごいです。

<大詰めを含む後編に続く>

歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎

『お国と五平』
谷崎潤一郎 作
福田逸   演出
坂東三津五郎 (池田友之丞)
中村勘太郎 (若党五平)
中村扇雀 (お国)

『怪談乳房榎』
三遊亭円朝 口演
實川 延若  指導
中村勘三郎(菱川重信・下男正助・蟒三次・三遊亭円朝の四役)
中村橋之助 (磯貝浪江)
中村福助 (重信妻お関)

8月18日 第三部
歌舞伎座 1階西桟敷1

*** 歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎 お国と五平 怪談乳房榎 ***

八月納涼大歌舞伎~お国と五平・怪談乳房榎 (Tues, Aug 18, 2009) 前編

2009-08-18 | 歌舞伎
東京に住んでいた頃、一時期同じ会社に勤めていた縁でとても仲良くなった友人たちがいます。
私を入れて4人なので、当時流行していたSATC(セックス・アンド・ザ・シティ)のキャリーたちと自分たちを重ね合わせ、
(当時はこういう勘違い4人組が世にゴマンといたはず、、。)
その会社を離れた後も、4人全員は揃わなくとも、そのうちの最低二人は
1週間に一回くらいは会ったりしていて、恋の話、仕事の話、これからの生き方の話、
よくもまあこんなに話すことがあるもんだ、と思ったものです。

その彼らと今回帰省で会えるのは一番楽しみにしていたことの一つで、
案の定、会った途端、その頃にタイム・スリップしたかのように、お互いの近況報告で大盛り上がり。
やがて、友人の一人が最近出会ったある男性の話になりました。

その男性の趣味は歌舞伎を観る事。つまり彼は歌舞伎ヘッドなわけで、
なんと二回目のデートに、”歌舞伎を見に行きませんか?”とのお誘いがありました。
彼女は特に歌舞伎ヘッドなわけではないのですが、デートに歌舞伎というのも面白いかも!と快諾。
一緒に観るのは夜の部だったので、彼女としては出来れば開演前に軽く一緒に夕食を食べるか、
もしくは幕間に歌舞伎座の中にある食事処で一緒に、、、と思っていました。
だって、結局、デートというのは、そういう、どこで何をしようか?という部分を考えたり、
実際に行動に移すのが楽しく、また目的であるわけですから、、。

しかし、彼から宣告された無情な言葉は、”食事は各自持参で、幕間に休憩場所で食べましょう。”
ええっ!!??せめて、一緒に買いに行くという選択肢もないのか、、、?
しかし、優しい彼女は”わかりました。ではそうしましょう。”と言って、
当日、コンビニで調達したおにぎりなどを持参して歌舞伎座に出かけていきました。
いよいよ、幕間。ホールにしつらえられた長椅子に座り、おにぎりを取り出す彼女。
ふと彼を見ると、仕事帰りのアタッシェケースを開けたそこには、
某製パン会社の、あんパンとスティック・パンがぎっしり、、。
”スティック・パン、お一ついかがですか?”とすすめる彼に、
ああ、この男性との次のデートはないかも、、と彼女は思うのでした。
もうこの話を聞いた時は、おかしくてお茶していた喫茶店の椅子から転げ落ちるかと思いましたが、
ふと、我に返ると、私も自分が彼女の立場なら、彼女と全く同じように感じることに間違いはないのですが、
その一方で、紛れもないヘッズである私には、ひとごとと思えず、
思わず身につまされる部分もありました。

ヘッズの基本ルールはこれ。
”自分の偏愛の対象(オペラであれ、歌舞伎であれ、、)に付き合いの浅い友人、特に異性を巻き込まないこと!”
これは相手の方が同じ対象に興味を持っていない限り、
まさに目を覆いたくなる大失敗になること、間違いありません。

それはなぜかというと、まず第一に、ヘッズなら、
いい加減に、もしくは緩い気持ちで、オペラや歌舞伎を鑑賞することはもはや不可能だからです。
いつの間にか、つい、デートでは最も肝心なはずである相手の女性・男性のことよりも、
オペラや歌舞伎の方が第一になってしまったりして、、
しかし、これはデートにおいては相手の方に対してとっても失礼です。

そして、第二には、劇場に通いつめていると、ある種の行動パターンが出来上がってしまって、
それを崩すのが苦痛になるということです。
私も、メトに行く場合、化粧室に行く段取りとか、幕間に行く場所、またそこで何をするか、など、
自分が一番リラックスしてオペラを見れるように組み立てたルーティーンがあって、
最早これを変えることは不可能なんじゃないかと思います。
例えば化粧室に行きそびれると、次の幕でパニック・アタックを起こしそうになります。
会社では全然トイレに行かなくても平気なのに。
私の友人がデートしたこの男性の食事の仕方、食べ物の選び方から、
それと同種の匂いを感じます。
いつもあんパンを食べているんだろうな、幕間に、、、という。
まあ、そうやってオペラや歌舞伎のためなら、人様のことも顧みず、
自己チューになってしまうところに、次のデートはない理由があるわけですが。

さて、私はオペラでも、自分の趣味、主義、主張全開!のスタンスで書かれた書物が大好きで、
あたりさわりのないことしか書いていないと、全く読む気になれません。
以前、三浦しをんさんの『あやつられ文楽鑑賞』がおもしろかった!とご紹介したことがありますが、
今回、東京の本屋でふと手にとった、小山觀翁さんの書いた『歌舞伎通になる本』、これがまた面白い!



御年80歳になられる小山さんは古典芸能の評論家で、
歌舞伎座でのイヤホンガイドの監修をされているのみならず、どうやら松竹の顧問ですらいらっしゃるのに、
その歯に衣着せぬ物言いは、まさに真性の歌舞伎ヘッド!
冒頭の方ではそうでもないのですが、段々とエンジンがかかり始め、早くも第二章では炸裂しておられます。

歌舞伎とは嘘を楽しむ心意気がなければならない、ということを語る章で、
歌舞伎において、大道具小道具はもちろん、話の筋の細かい点における適切な時代考証の有無は、
”一言にしていえば「ゼロ」である”
とばっさり断言したかと思うと、歌舞伎座の桟敷席については、
”その席の位置たるや、横の一番はずれにあり、
もしかりに、これが椅子席であったなら、ここはひどい席である。
現に桟敷のない国立劇場などで、こんな席を押し付けられたら、文句のひとつも言いたいところだ。”
など、その炸裂ぶりはとどまるところを知りません。
しかし、その文章には、長年舞台を見続けて来られた方特有の歌舞伎への愛が底流に感じられ、
中でも、もはや演劇、いえ”芝居”論と言ってもよい第二章は、
オペラなど、他の舞台芸術のフォーマットにも共通する部分もあり、
大いに鑑賞の参考になる内容がつまっています。
(小山さんは、現在の演劇・芸術としての歌舞伎よりも、昔の”芝居”であった頃の
歌舞伎が好きでいらっしゃるるので、”芝居”論なのです。
演劇と芝居の違いについては、同書で詳しく触れられています。)
今回の舞台を鑑賞した後に同書を読み始めたのですが、
実際に舞台で見た事と、書かれている内容がリンクする部分が多く、大変興味深く読ませて頂きました。

楽しかった日本滞在の最後の夜に、歌舞伎を鑑賞しました。
多くの方がご存知の通り、歌舞伎座は今年の公演をもって建替えが行われることとなり、
約3年間、工事のために閉場されてしまうので、
どうしても今回の帰省で含めたかったのが歌舞伎鑑賞でした。
なぜならば、15年以上も東京に住んでいながら、歌舞伎座には一度も行ったことがないので、、。



各座席についての好みなどというものは、その劇場にかなりの数通わないと決められないもので、
わからないときはとりあえず贅沢をしておくに限ります。
というわけで、今回は発売後比較的間もなく、桟敷席狙いでチケットを探しはじめたのですが、
いつもこんなに人気があるのか、現行の歌舞伎座の最後のシーズンということで特にそうなのか、
私が日本に滞在する日程のうちで、桟敷席が、それも一席だけ、残っていたのは、
この8月18日の、それも第三部(夜の公演)しかなかったのです。
というわけで、出演者や演目を吟味する余地もなかったのですが、結論、私は運が良かった!!

八月第三部の狂言は(歌舞伎の世界では、演目のことを狂言というのだそうで、
芸術形態としての狂言とは別の意味で使われています。)、
『お国と五平』と『怪談乳房榎(ちぶさのえのき)』。



平成中村座のNY公演で観た『連獅子』は舞でしたが、
今回は『怪談乳房榎』に下座による音楽の演奏がある以外には、
メインの出演者による歌も踊りもない、台詞中心の作品のカップリングです。

琵琶の演奏についての記事でも書いたとおり、
私は結構日本の伝統芸能について、言葉に対するフォビアがあって、
同じ日本人同士であるのに相手の言っている言葉がわからない、というのがすごく嫌です。
なので、一応、両作品ともあらすじを予習して行ったのですが、
それでも、目の前で意味のわからない言葉が行き交うと、もうそれだけでやる気を失う予感があったので、
すごく心配だったのですが、歌舞伎って、こんなに聞き取りやすい日本語を話しているんですね。
知りませんでした。
昔(昭和の初め頃)の公演の録画をDVDなんかを見ると、役者が語る言葉がほとんど私には意味不明なのですが、
それは時代による発声のせいなんでしょうか?
それとも、現代の公演は現代人にわかりやすいようにある程度言葉がアレンジされているのでしょうか?
(多分後者だと思う、、その理由は後ほどふれます。)
感触的には、テレビで時代劇を見ている感じに近い。
そんな言葉、現代、普段の生活では使わないけど、意味は十分わかる、というレベルの。
なので、開演前にイヤホンガイドを劇場からお借りしておいたのですが、
語られている言葉の意味を理解するという点では、全く必要ありませんでした。

というか。初見の作品で、リブレットや字幕やらの助けなしに、
語られている言葉が一語一語までわかるのって、本当に楽しい!
日本人で良かった、、と実感する一方で、オペラをもっともっと楽しむには、
もっともっとイタリア語、ドイツ語、フランス語(ロシア語は手強そうなので、多分、
死ぬまでに間に合わないと思う。)を勉強せねば!と野望に燃えるのでした。

まず歌舞伎座の劇場部分に入って驚いたのが、空間の縦横の比率。
すごく横に広くて、縦(前後)に短いんだなあ、、と。
今回は、実際の公演の内容もさることながら、細かい部分で見られる歌舞伎の上演のしきたりとか、
舞台機構としての歌舞伎座に感心したり面白さを感じた部分がたくさんあって、
こればっかりは、どんなに即席で花道とかを作っても、
エイヴリー・フィッシャー・ホールでは再現不可能な、
実際の歌舞伎座の空間の中だけでしか体感できないものだと思いました。

これはオペラも同じだと私は思っていて、海外の歌劇場が、引越し公演の形で、
セットから衣裳からオケから合唱から、全てを持ってくることは出来ますし、
それはそれで、とてもありがたいことではあるのですが、
やはりその劇場の個性というのは、その劇場が実際にある場所でしか完全には感じられないものなのではないかと思います。
だからこそ、新国立劇場には、早くレジデントのオケも作って、
そういった唯一無比の存在になるべく、がんばってほしい!と思うわけですが、、。
おっと、いけねえ。今日は歌舞伎の話でした。

前半の『お国と五平』。
これは、谷崎潤一郎の作品。歌舞伎には、他に三島由紀夫が書いた作品などもあって、
こういう優れた作家とのコラボがちゃんと昭和まで続いているのも楽しい。
(平成については、そもそも三島由紀夫や谷崎潤一郎級のすぐれた作家と呼べる人が
いないような気がする。寂しいことです。)

谷崎潤一郎は、『痴人の愛』を含む一部の作品で、
主人公の行動の馬鹿馬鹿しさ、奇天烈さを、ほとんど読者に
”馬鹿じゃないの?この人。”もしくは”なんかキモチ悪い、この人。”
と思わせるほどに、ユーモラスに、かつ意地悪に描写しながら、
しかしその一方で”ついそうせずにおれない哀しさ””痛さ””しぶとさ”を描いていますが、
それと同じ雰囲気をこの『お国と五平』から感じました。
ある意味、とても谷崎潤一郎らしい作品だと思います。

ひとかどの武士であった夫伊織を、同じ武家の、
つまり一種の身内であるはずの友の丞の裏切りによって殺されてしまい、後家になったお国。
逃げた友の丞を見つけ仇を討つため、忠実な従者の五平を伴って行脚を続けて早や五年が経っている。
そんな二人の前に虚無僧姿の友の丞が現れ、、というストーリーなんですが、
実はこの友の丞は、お国の昔の許婚で、あまりの駄目さにお国の家族同意で婚約を破棄させられたものの、
お国のことがあきらめられず、お国が彼を探していたつもりのこの5年、
実は彼の方が姿を隠しながら彼女をずっとストーキングしていて、
なんと、お国と五平の間が一線越えてしまったものになっていることも知っている。
二人が一線を越えている間にじとっとそれを外で感じ取りながら座り続けていたであろう友の丞。怖い。
最後にはそれを質に、そのことは一家に黙っておいてやるから、
かわりに何が何でも自分の命だけは助けて欲しい、と交渉する大変女々しい男なのです。
この女々しい男が女々しさ全開ついでに、最後に爆弾を落とす。
もはや主従関係を越え、相思相愛の仲になっているお国と五平の前で、
自分もお国の体を知っているぞ!と言い始めるのです。
んまっ!結婚前に!意外とガードが緩いぞ、お国!って感じなのですが、
その言葉を最後まで言わせまい、とつい刃物をとって友の丞を刺し殺すお国。
その行為こそが、それが本当であることを物語ってしまう。ガードが緩いだけでなく、頭も悪いお国!
ついに復讐を果たし、邪魔者がいなくなって、一緒になれてハッピー!のはずのお国と五平、、。
だが、しかし。
優しい五平のこと、何もなかったようにその後も振舞っていくのでしょうが、
あの友の丞の爆弾発言により、二人の間になんともいえない後味の悪いしこりが残ってしまうのです。
友の丞、死と引き換えに、見事な毒を二人に放っていきました。

私は予習であらすじを読んだ段階では、何としてでも添い遂げる!という、
お国と五平の純愛物語かと思っていましたが、とんでもない。
谷崎が書いた台詞の一語一句が実際に舞台で交わされるのを聞いて、
お芝居から観る側が感じ取るものというのは、あらすじなんかじゃなくって、
台詞の読み方を含む演技の仕方によって規定されるのだと思います。

友の丞を演じたのが坂東三津五郎(ちなみに、私も含め歌舞伎役者にあまり明るくない方のため、
下の写真の向かって前列右に座っている方)です。

話は脱線しますが、私のようなオペラファンにとって、歌舞伎で最もなじみにくいことの一つが世襲制度で、
役者さんの名前が、お魚のように若いときから段々と名前が変わっていくというのも、
また姓も名も同じ人が時代をまたがって複数(それも時には10人以上!)いるというのも、ややこしすぎます。
家の芸を継承する、というコンセプトはわかるんですが、オペラで、
いくら師弟関係を結んでいるからと言って、マイヤ・コヴァレフスカがいつの間にか
ミレッラ・フレーニに名前を変えている、なんてことはないし、
後世にわたってミレッラ・フレーニが何人も出てくる、なんてこともありえない。
伝統というのは、面白いことを考え出すものだな、と思います。



坂東三津五郎の友の丞は、私には、非常に谷崎文学の味を忠実に舞台で表現しているように思いました。
あらすじを読んでイメージしていたところでは、友の丞が憐れに見えるはずの場面で、
客席から爆笑が起こっていたりして、一瞬、あれ、これでいいのかな?と思うのですが、
これでいい。というか、谷崎がこのように作品を書いているのだからしょうがない。
『痴人の愛』の譲治に、美しさや哀れをすぐに感じる人はいないのと同様に。
譲治は最初から最後まで、格好悪い。読み終わった後ではじめてじわっと、
あれ?もしかしたら、ちょっと可哀想な人?と思うわけです。
それと同様に、友の丞は徹頭徹尾、女々しく、おかしな人でよい。
それで、作品が終わった後に、あ、そういえば、奴、すごい置きっ屁をして死んでいったな、と思わせる、
もともとそういう作品なんだと思います。

それでいうと、ちょっと演技がオフ・フォーカス気味に感じたのはお国を演じた中村扇雀。
(上の写真の二列目中央。)
というか、この作品で実は最も奥が深く、演技が難しいのは、お国役かもしれない、と思います。
この作品中、唯一、伊織、五平、友の丞全員と直接に深い絆があるのは彼女だけで、
これは、伊織は舞台には登場しない人物なのでともかく、
自分なりのお国像を作りながら、五平と友の丞の役の演じ方にそれを合わせて行くことも求められているといえます。
そもそもお国も一筋縄ではいかない女性であることは、上で書いたあらすじからも感じられ、
まず、自分なりのお国像を作るという段階ですでに難関です。
この部分も私には少し曖昧に感じられて、お国がどういう女性なのか、今ひとつ伝わって来ませんでしたし、
五平と友の丞、特に友の丞とのケミストリーも、しっくりしない感じがありました。
五平はその点、友の丞の爆弾発言のシーンまでは、割と一本気な役なせいもあってか、
中村勘太郎(写真では三列目の向かって右)の初々しい感じが雰囲気にもマッチしていたと思います。
もう少し演技に深みが出るともっといいかな、、、
長旅で足に辛さを感じているお国の片足をそっと持ち上げて、
ひざまずいた腿にそれをのせて、いたわる場面がありますが、
ここに、二人の深い仲が凝縮されなければいけない。
その濃さが今ひとつだったと思います。
それは勘太郎だけではなく、扇雀側にも言えることかもしれませんが。
また、言葉の響きも少し平たいというか、若者が一生懸命喋っている古風な日本語という感じがややします。

歌舞伎というよりは、普通の演劇に近い位置に立っているこの作品は、
(効果音をスピーカーで流したりするのはちょっとどうかと私も思いました。)
歌舞伎好きの方に必ずしも完全に受け入れられているわけではないようで、
幕間に、”まあ、こういう作品もあるのね、、って感じかしらね。”などと、
ファンと思しき方に言われていました。

私は、これはこれで、歌舞伎らしくはないとしても、それなりに興味深く拝見させていただいたのですが、
ただ、鑑賞後の、演技ではなく作品そのものから来るなんとも悪い後味に、
谷崎潤一郎は、やっぱり意地悪な作家だなあ、と思いました。
最後に告白すると、谷崎潤一郎のそういうところが、あんまり好きじゃないんですよね、私。
すみません。

<怪談乳房榎で大興奮!の中編に続く>


歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎

『お国と五平』
谷崎潤一郎 作
福田逸   演出
坂東三津五郎 (池田友之丞)
中村勘太郎 (若党五平)
中村扇雀 (お国)

『怪談乳房榎』
三遊亭円朝 口演
實川 延若  指導
中村勘三郎(菱川重信・下男正助・蟒三次・三遊亭円朝の四役)
中村橋之助 (磯貝浪江)
中村福助 (重信妻お関)

8月18日 第三部
歌舞伎座 1階西桟敷1

*** 歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎 お国と五平 怪談乳房榎 ***