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展示作品の選別

2009-08-17 17:08:23 | 展示準備2009年10月
Ikebukuro071

お盆休みを利用して、個展の準備を進める。とりあえず、ポストカードとプレスリリースを作成し、展示作品を選択するところまで終わらせたが、これだけの作業を割と気軽にこなせたのは、やはりなんと言ってもデジタルデータで進めたことが大きいだろうね。
とりあえず、撮りためた167本のネガから1000カット弱をスキャンし、そこからさらに100カットを選んで検討用のハードコピーを出力したんだけど、銀塩だったらもぅその段階でおなかいっぱいというかなんと言うか、検討用のプリントを焼くだけでうんざりしちゃっただろうなぁ。ただまぁ、いわゆるストレートフォトグラフィにおいては、編集段階で「撮影時の意識を飛ばす」って事もかなり大事なので、極端なことを言えば作業中に「なぜこんなカットを撮影したのかわからなくなる」ぐらいの量がちょうどよかったりする。
例えば、自分が通っていた金村ワークショップでは可能な限り多く撮影し、とにかくたくさん検討用カットを用意することが推奨されてたりしたんだけど、そこでは100カットかそこいら撮りためた段階で展示を考えるなんてとんでもないという雰囲気だったっけ。最低でも、手札かキャビネサイズで1000カットはプリントして、検討用の六つ切りを100枚は用意してから展示作品のセレクトにかかるという塩梅で、つまるところ自分が今やってることを銀塩でやってたということになるんだよね。

こういう風に書いてしまうと、まるでなにも考えずに撮影することがよいことで、そうしてなにも考えずに撮影してよい写真が取れるのかとか、あるいはそういう写真が魅力的なのかという疑問を持つ人がいるかもしれないけど、そういう撮影あるいは編集スタイルからも魅力的でよい作品が生まれていることは明らかなんだよね。まぁ、あえて言えばそういう撮影スタイルを極端に推し進めた結果が、いわゆるLOMOトイカメラのブームにつながるともいえるのだろう。とはいえ、単になにも考えずに撮影すればそれでよいかというと、それはかなり微妙な話。当たり前のことを言うけど、そういう撮影スタイルから人々を惹きつける作品が生まれるのは、撮影者がきちんと撮影の訓練をつんでいたり、編集段階できちんと作品をコントロールする力量を持っているからで、少なくとも自分はまだその領域に達していないから、物量に頼ってとりあえず「撮影段階の意識を編集段階で飛ばす」わけ。

でまぁ、今回はデジタルデータでそういうことをやってみたんだけど、あまりにも楽に進みすぎて拍子抜けしちゃった。それでも、今回はネガからのスキャンという段階がひとつあったから、まだ多少はうんざり感が残っているかと思わなくもないのだけど、もし撮影段階からデジタルデータだったら1万ショットで1000枚プリントとかしないと、銀塩ほどのうんざり感は出ないかもしれない。

とりあえず、自分は別の方向性を考え始めているんだけど、デジタル機材が便利に進化しすぎているから、撮影段階での意識コントロールを拒否するには更なる物量か、あるいは全く異なる方法論が必要になるのではなかろうかと思う。あるいは全く正反対の方向性、例えば大判写真で画面の隅々まで撮影時にコントロールするような、スタジオ写真的な方法論が「ストリートでも再び主流になる」かもしれないね。

全然話は変わるけど、十数年ほど前に「ガーリーフォト」とか「女子写真」という言葉が生まれたか生まれないかの頃、若い女性たちがやたらとセルフヌードを撮っていたんだけど、あれって現代ではもぅやばい行為になりつつあるのナ。個人的には、彼女たちが「単純所持」で捕まることがないように祈っているけど、セルフだけじゃなくって「年下の親戚や兄弟、近所の年少者のヌード」も撮ってた人々はさっさと記録を処分したほうがよいかもしれない。なにしろ、公明と創価も含めて法的な規制を推進している原理主義者たちは、そういう人々たちも「子供という集団的人権を侵害する加害者」だと考えているし、援交女子と同様に「護るべきでない子供たち」と認識してんだからネェ。


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