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変化を受け入れることと経緯を大切にすること。バランスとアンバランスの境界線。仕事と趣味と社会と個人。
あいつとおいらはジョージとレニー




全てを知ることは不可能です。
そもそも『知る』とはどういうことか。人によってその解釈は違うだろう。
世代によっても異なっている。おいらも若い頃と今では違っており、概ね
のところでは、「知っている」という言葉を迂闊に使わなくなったというか、
慎重に使うようになった。
「知ってるって言ったよね!」的な多くの痛い目に会って来たからだろうし、
本当に「知る」ことの大変さについて、その片鱗だけでも理解できるように
なったからだろう。

経験してはじめて『知る』ことができるのだろうか?

それは、否。

勿論、経験することで「理解」できることっていっぱいある。それは認める。
じゃ、何回経験したらいいんだい?
事象には様々な発生パターンがあり、結果的に同じ事象でもその経過は
千差万別。全てを経験することはまず無い。
経験を軽視している訳ではない。経験者の説得力は絶大だ。「当事者」に
なるのだから、「部外者」より主体性に富んでいて然り。

年齢を重ねることで、好き嫌いと問わず、望む望まざるによらず、様々な
経験が積み重なっていく。そして、人間は応用する。
類似していると感じたものは、経験則から対処対応を導き出すことが多い。
ここに経験の差が出る。

量がモノを言う。

質も必要だ。アリテイだったり表面だけの経験は役に立たない。応用する
にはそれなりの内容でなければならないのである。

一向の本題に入らないのだが、

 知らないことの強み = 知ってしまったが故の弱さ
 知っていることの優位性 = 知らないと如何ともし難い

ということがあると思う。

しかし、だ。
おいらは『無知』とは犯罪だと思っている。
犯罪的無知もある、と言った方がいいかな。

ダメだ、纏まらん。今日はおしまい。


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