平成十年八月(知床岬)

はじめに...

私は海や山が好きです。北アルプスや南アルプスに行くことも
あれば、沖縄や小笠原に行くこともあります。しかしなにぶん
素人。達人から見れば大したことがないことも、私にとっては
大冒険です。

思い出はいろいろあるのですが、北海道の知床岬は忘れられま
せん。知床は日本最後の秘境と言われ、世界遺産にしようとい
う動きがあります。実際、岬の先端までは交通がなく、数日か
けて歩かねばなりません。

６年前、私は、友人で山の達人である西村という男に誘われて、
知床岬の先端まで、のこのこついて行きました。途中、漁師さ
んの小屋(番屋)に泊めてもらったり、漁船に乗せてもらって網
を引いたり、歩けない場所は泳いでぬけてみたり、いろいろな
思い出があります。

以下は、会社の運動系サークルの会報に書いた紀行文です。パ
ソコンを整理してたら出てきました。何か甘いなぁと思いつつ、
懐かしくなり、書き込んでみることにしました。

私が名無しなので申し訳ないと思いつつ、西村は固有名詞でし
かないので、そのまま載せます...

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知床の写真は夏の思い出。
熊と西村と断崖。西村が写っているのは背中だけ。

夏なのに涼しく、頭大の岩転がる浜辺。腰かけた尻が重たい。
『行こか』
息止めて立ち上がる。
よろけている間に西村は歩いていく。確実な足取りで進んでいく。
あいつの踏む石は盤石。俺の踏む石はぐらぐら。
奴の足にはセンサーがついているんだ。
などとよくわからないことをとりとめなく考え、よろけ、進む。

知床といえば最後の秘境。秘境らしく静かで蝉の声もない。
あちこちに骨が転がっている。何がどうしたらこんなことになるのかしら？
厳しい結論を前にして、熊除けの鈴が背中で頼りない。
熊が歩けば鹿は群れるし植物だってよく観ると、違う。
大ぶりの葉が密生しているところに一陣の風が吹く。それだけでなまなましい。
都会のひ弱な緑には見られない存在感だ。
高原の野山にも感じられないんじゃないかな、あの野蛮な力は。

そんな奴等を横目にひたすら歩く。だからといって単調な道程ではない。
それは突然やってくる。
あっと言う間に眼前の土、空に流れる。辛うじて掴むロープ。
さっきまでの足場は頭の上。心配顔の西村。
足を踏ん張る。弱い地盤ざらざら崩れる。やれやれ。
ロープを掴む。手をじっと見つめる。
走馬燈回してたら落ちてしまう。
体の中、駆け巡っている。これって何だろう。
俺は今、とっても生きたいんだと思った。
ロープ振り子に見立てて、体左右に勢いをつける（ちょっと大げさ）。
左手の岩に噛り付く（もっと大げさ）。
どこにこんな力があったのだろう（実感）。

岬はあった。ここだけを目指してきた岬。
岬には平原が広がっていた。とても蒼かった。
岬には風が吹いていた。とても優しかった。
岬で水平線を見渡した。とても広かった。
岬の太陽が翳ってきた。時間を止めたくなった。

暗くなって寒くなって焚き火やって飯食って寝た。
時間は止まらなかったから、帰ってきた。
だから今、ここにいる。

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