森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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自画像のなかった日本 -我々は主体となりうるのか
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/6d/42360c89974b6e79608eded8463874b8.jpg)
私の興味は、日本に「個人という概念がなかった」という阿部の指摘している点だ。この指摘にほとんど首肯せざるをえない。ここで阿部のいう「世間」という概念に言及する余裕はないが、それでも個人という概念がなかった日本には自画像という分野そのものがなかった、それは個人に価値を置いていなかったことの証左だといいきる阿部の説くところをまったく無視することはできないだろう。
今日もそれほど事態はかわっていないのだ。自己主張をすることは、すなわち「和を乱す」ことという教えとわれわれは無縁ではなかった。あえていえば今でもそんな環境の中にわれわれはいる。そんなしくみから逃れでていないのだ、われわれは。
それは、たとえば、だれもがほとんど何も疑うこともないかのように勝ち組を追求していく姿にも表れているようである。ひるがえって考えてみて、昨年の衆院選はどうだったのだろうか。
自画像を描く慣習のなかった日本で育ってきたわれわれが、こんどは自分をじっと観察し、それをキャンバスに描く。それに挑戦してみる。だれかに限られるということではなく、ひとしく日本人に求められているのではないか。いまはその時期である気がしてならない。阿部の言葉を借りれば、自己を描くことによって、まず自己を発揮せよ。
「世間」の中で生きている日本人と「世間」をもたない欧米人との間にはこれだけの違いがある。このことを抜きにして欧米の文化を語ることは出来ないのである。日本で社会という言葉がソサイエティの訳語として生まれたのが明治10年であり、個人という言葉がインディヴィデュアルの訳語として生まれたのが明治17年であるから、それ以前には個人という概念も社会という概念もなかったのである。 個人という概念がなかったことは明治以前には日本には自画像というジャンルがなかったことにも示されている。明治以後、東京美術学校(現・東京芸術大学)が西洋画科の卒業生に自画像を描かせることを定めてから、自画像が描かれはじめたのである。それ以前の日本人は「世間」という集団の中で生きており、そこに価値が置かれてたから、自己を描く必要性がなかったのである。明治以前の自画像のほとんどは雪舟、白隠、良寛等であり、その多くが禅宗の僧侶のものである。 日本では今でも自画像の中に傑作といえる作品は少ない。個人が自己を発揮できる環境が必ずしも十分でないからである。それと比べれば欧米では古くから十分に自己を発揮した作品が生まれている。…… このことは自画像だけの問題ではない。私たちの生き方が「世間」によって大きな部分で縛られていることを示してもいるのである。私たちは子供の頃から自己主張をしないように教育されてきた。出来るだけ謙虚に生きることが優れた生き方とされていた。まわりの人の中で自分を主張することは良くないこととされ、周囲の人の中で目立たない存在になるように心がけてきた。したがって自画像を描く動機がそもそもなかったのである。 |
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