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日本からみた幼稚園児殺害事件
初公判がはじまった滋賀・幼稚園児殺害事件について昨日、加害中国人女性の側からみた。この事件を、中国人女性とは異なる日本側からもみなくては、どこか欠落するような気がしてならない。
生まれ育った土地を離れて、大都会で生活しはじめたときに、いいようもない不安に襲われたことがある。たとえば、それまで遭遇したことのなかった人ごみとその流れはもちろん、地下街を歩く人の速さにさえ圧倒され驚いた。数十年も前のことだから、今とちがって情報の伝播する速度は格段に遅く、それだけに地方と都市の社会的・経済的な格差は保持されていて、地方と都市の差異は、現在とは比較にならないほど大きかったはずである。その差異に戸惑ったのだ。自らの経験の領域を超えたこうした経験は、ただ将来にむかった不安であるばかりでなく、現在=その時における、ある種の気恥ずかしさを強いるものだったのだ。
いまここで、自己と他者を共通に囲う普遍性があるとしよう。それは、お互いが「何かであること」を根本から否定し、ないものにする、つまりアイデンティティの変容によってのみ保証されるものであろう。
この園児殺害事件をこの視点からみてみると、たとえばコミュニケーションは、中国語によるか、日本語によるか、または第三の言語によるか、そのいずれかによって可能だ。この事件では、中国語か日本語のいずれか、さらにいえば日本社会のなかの現実であることから予測されるように、日本語によるコミュニケーションの成立が可能性としては大きいはずである。したがって、事件の背景に、この中国人女性にとっては「中国人であること」、つまり中国語の使用をやめるのが不可能だという問題が横たわっていたと解釈できる。逆に日常での中国語によるコミュニケーションは希薄だったと容易に推測される。
犯行によって彼女はその特異性を乗り越えようとしたのだが、この特異性が日本社会のなかでのコミュニケーションという循環の中にある以上、循環を切断したところそれを否定し去ることはできなかったのだ。
つぎの言葉がある。
責任を可能なものとしている契機と、赦しを可能なものにしている条件は、同じ逆説である。だから責任が可能なのは、われわれが、「絶対に赦しえない」という認識を保ったまま、それを赦すことができる場合である。赦しが因果関係を乗り越えるその同じやり方だけが、責任という感覚をも生み出すことができるからだ。犯罪者を心神喪失と見なして、責任概念の守備範囲から放逐するのでもなければ、責任能力を認定した上で断罪するのとも異なる、第三の道がここにはないだろうか。大澤真幸「試練にたたされる『責任』概念」(『朝日新聞』、2001・6・23)
この文脈で、滋賀・幼稚園児殺害事件を考えることはできないだろうか。
もとより、赦すことができ、また責めることができるのは、犠牲者と、あえていえば遺族や親友のみである。残された遺族の深い心の傷は察して余りある。
こう考えるならば、日本社会における外国人の受容の現状とその条件にも、私は目を向けざるをえないのである。これは、「何かであること」を根本から否定し、無いものにする(無化する)、つまりわれわれ日本人の側には、はたしてアイデンティティの変容の条件があるのか否かを問うことでもあるのだ。
自らに直接原因がないこの事件の責任をわれわれが受け止めるとすれば、それはまさにこのことだろう。
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