ラブ★コンの街から西へ東へ

趣味の旅行・街歩き・日常のどうでもいい事をを綴ったブログです。

母校の小学校が消えていた

2015-03-14 23:24:01 | お出かけ・風景
一昨日の木曜日、健康診断まで残り日数が少ないので、歩く事に決めていました。
毎年この時期、堺の自宅から藤井寺までの約11kmを歩く事にしています。

途中に私が小学生の時に住んでいた家があります。
今年もその家を見に行ってきました。
45年前に父が考えて、知り合いの大工さんに建ててもらった家は
昔と外壁の色は違えど、そのままちゃんと建っていました。
注文住宅なので、良い材料を使ってもらったと聞いています。

それから昔の通学路を歩いて小学校にも行ってみました。
途中で、下校途中のたくさんの児童とすれ違いました。
昔と制服は同じですが、帽子が変わっていました。
私たちの頃は紺のブレザーと短いプリーツスカート、白いブラウスにえんじ色のリボンでしたが
今はリボンをしている子はいませんでした。
私たちの頃も制服きちんと着ていなくても、別に大丈夫で、リボンもしたりしなかったりでした。
体育の日はブラウスの代わりに、白い体操服を着て行きました。

で、小学校に行くと・・・そこは広大な更地になっていました
去年はあったはずなのに。
(ストリートビューではまだちゃんと見られます)

調べてみると、隣り合っていた幼稚園・小学校・中学校のうち、
幼稚園と小学校は中学校の敷地に統合されたそうです。
これも少子化の影響でしょうか。

私がこの地に引っ越して来た時には、一学年4クラスでしたが、
卒業の時には6クラスになっていました。
転校当初はこじんまりとした木造校舎で、冬は石炭ストーブを使っていました。
日直はブリキのバケツを持って、石炭置き場から教室まで運びました。
トイレは校舎外にある男女共同のボットン便所でした。

それでも児童が増え続け、新校舎がどんどん建てられました。
鉄筋コンクリートの校舎は、全館暖房でもうストーブは必要ありませんでした。
(さすがに当時はクーラーはありませんでしたが)
校舎内には男女別の水洗トイレがありました。
理科室・家庭科室・視聴覚室・書道室・図工室・音楽室などの特別教室も
当時の最新の設備のが2室ずつありました。
オンボロ木造校舎から新校舎に移った時には本当に嬉しかったです。
工事がひと段落した時には、できたばかりの新しい体育館でもう卒業式でした。

それでも児童は増え続け、私の卒業後に新たにできた小学校と分離しました。
今は一学年2クラスしかないそうです。
あんな立派な校舎は、教室も多過ぎてもう使いこなせないんでしょうね。
当時の新校舎も、建ってから既に40年以上経っているし、設備も古くなっているでしょう。
使い勝手が良い適切なサイズの校舎が中学の敷地にできるのも仕方ないのかも。

歩いていると、中学生ともすれ違いました。
私は小学校を卒業した春休みに、今実家がある奈良にまた引っ越ししたのですが
引っ越しの日がなかなか決まりませんでした。
入学する中学も大阪か奈良かも未定で、念のために大阪の中学の制服を注文してもらいました。
結局、奈良の中学校の入学式までに引っ越しが間に合ったのですが
制服は大阪の中学のものを着て行きました。
一人だけラインやスカーフの色が違うセーラー服を着て通学するのは、ちょっと目立ちましたが
同じような事情で、ブレザーで通学している人もいました。
しばらくその制服で通いましたが、学校指定の制服屋さんでリフォームしてもらいました。
本当は前の制服の方が、ラインの色や刺繍やスカーフの形がオシャレで好きだったんですけどね。
新しい制服は、普通の白い3本ラインで刺繍もありませんでした。

そういえば、前の制服のスカーフもまだ家に残してあります。
新しい中学のリボンも、高校のネクタイも、職場の制服のリボンも。
コメント (2)