大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

福澤諭吉伝(3)

2015年08月19日 | 労働者福祉
かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭(さと)すべき方便なければ、ただ威をもって畏(おどす)のみ。
西洋の諺(ことわざ)に「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。
こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災(わざわい)なり。
愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。
ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり


痛烈な批判は現代でも立派に通用します。

さて福澤諭吉伝のつづきです。

1855年、20歳になった諭吉は、緒方洪庵の適塾をおとずれました。
明治維新の13年前のことです。
この頃、各地から適塾に学びに来ていた若者のなかには、その後、幕末から明治にかけて日本を動かした人物がたくさんいました。
そのなかの一人に越前福井藩からきていた医者の橋下左内がいました。
諭吉はこの左内の人柄に打たれて大変尊敬をしました。
のちに佐内は、福井に帰って松平春嶽という殿様に仕え、藩の政治改革をすすめ、さらには日本の近代化を図るなどの働きをします。
しかしそれが、幕府の大老井伊直弼に咎められ、吉田松陰らとともに死刑にされてしまいます。
この時諭吉は、幕府の政治を批判することを許さないという封建制度に、心からの憤りを覚えました。

諭吉が適塾に入ってから2年後のことです。
兄の三之助が急死し、藩から家を継ぐようにとの命令が下されます。
諭吉は家に帰りますが、三之助の医療費がかさんで大変な額の借金が残されていました。
そのうえ藩の仕事といえば、身分の低い福沢家代々の仕事で、蘭学を勉強したことなど少しも生かせません。
諭吉は母に相談して、再び大阪の適塾に行く決心を固めます。
親戚中の猛反対を押し切って、家財や大量にあった貴重な蔵書を売り払って借金を返済し、母の援助を受けながら諭吉は適塾へ戻りました。

蘭学に詳しく、人柄も明るく親切な諭吉は、やがて、仲間に押されて塾長になりました。
塾長というと生真面目で勉強ができるだけの人物が多いのですが、この塾長は酒が好き、議論好き、宴会好き、ということで大変な人気者でした。
夏はまっぱだかで物干しの上で大酒を飲み、あるときは洪庵の奥さんの前へも裸で出るという大失敗をしたりもします。
こうして生き生きと適塾で学び、かなりの知識を得ていった諭吉の名が高まると、中津藩も諭吉をほっておけなくなり、蘭学の教師として江戸へ呼ぶことになりました。
「よし、これからは若い優秀な学生を育てていこう」と諭吉の胸は大きくふくらみます。

(つづく)