大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

福澤諭吉伝(6)

2015年08月25日 | 労働者福祉
今、日本の有様を見るに、文明の形は進むに似たれども、文明の精神たる人民の気力は日に退歩に赴(おもむ)けり
請う、試みにこれを論ぜん。
在昔、足利・徳川の政府においては民を御するにただ力を用い、人民の政府に服するは力足らざればなり。
力足らざる者は心服するにあらず、ただこれを恐れて服従の容(かたち)をなすのみ。

物質文明はどこまでも貪欲な人々を生み出し、その代償として精神の荒廃をもたらしました。
そんな風潮のなかでリーダーの気力も年々失せているようなことはありませんか?
現代においても謙虚になって議論していかなければならないと思います。
あなたはどうすればいいと考えますか?

さて「福澤諭吉伝」のつづきです。

諭吉らが帰国した1862年は、攘夷派の勢いがもっとも盛んな時でした。
年が明けると諭吉は忙しくなりました。
次々に幕府の外交文書の翻訳をしなければならなくなったのです。
諭吉が受け持った一番大きな仕事は、「生麦事件」に関するイギリスの賠償要求の文書を翻訳することでした。
生麦事件は諭吉が西洋視察中に起きた事件で、薩摩藩の行列を横切ろうとしたイギリス人を無礼打ちにした事件です。
幕府の老中たちは苦慮した挙句、多額の賠償金をイギリスに支払いました。
このあと、イギリスは7隻の軍艦を率いて、鹿児島湾に入り、薩摩藩に謝罪と犯人引渡しと、遺族への慰謝料を要求しました。
しかし、薩摩藩はこれを拒絶したので、薩摩藩とイギリス軍の戦争になります。
激しい戦いに双方に被害が出て、結局、薩摩は賠償金を払い、イギリスは薩摩のために軍艦買い入れの世話をするということで和解します。
同じように攘夷の考えを持っていた長州も外国船と戦いますが、散々に打ち破られて降伏します。
外国の軍事力をまざまざと見せつけられた薩摩と長州は、それからは、攘夷という考えを捨てて、倒幕という目的に向かうことになります。

尊皇倒幕の密約を結んだ「薩長同盟」により、1867年、15代将軍「徳川慶喜」は政権を朝廷に返上しました。
大政奉還です。
これにより徳川幕府は幕を閉じます。
諭吉はいち早く新しい時代の始まりを予知し、戦争の恐怖におののく江戸の町(芝)に大きな建物を建て始めます。
これが今の慶應義塾大学の始まりです。

(つづく)