大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

福澤諭吉伝(1)

2015年08月17日 | 経済
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。
されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。
その次第はなはだ明らかなり。
『実語教(じつごきょう)』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。
されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり
また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。
そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。
すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役(りきえき)はやすし。

ご存知、福澤諭吉「学問のすすめ」の書き出しです。
リズム感のある歯切れのよい文体を、できれば声を出して味わってみてください。

天は生まれながらにして人に上下の区別はつけていません。
それなのになぜ差がつくのでしょうか?
人は学ぶか学ばぬかによって吉凶禍福が定まるのだから学びなさい、という極々単純な教えです。


さて、今日から福澤諭吉伝をスタートさせます。
興味ある人も無い人もご覧くださいね。

諭吉は1835年1月10日、大阪にある中津藩の蔵屋敷に生まれました。
蔵屋敷というのは、藩が年貢米として集めたお米を保管する倉庫のことです。
父の百助は蔵屋敷で会計係をしている身分は低いが、学問も深く、立派な役人でした。
そんな父親でしたが、諭吉が1歳の時に病で亡くなってしまいます。
あとに残る母ひとりに子ども5人、大阪を引き払い中津(大分県)に帰り、貧しいけれども助け合って暮らしていきます。
だんだん成長してくるにつれ、好奇心旺盛な諭吉には腑に落ちないことがいくつも出てきました。
近所の子と遊ぶときでも、親の身分の高い子は「あなた」と呼ばれるのに、自分は「おまえ」と呼ばれます。
諭吉はそういうことが我慢できませんでした。

ある日のこと、兄が座敷で書類を整理しているところを諭吉が通りました。
ついうっかり諭吉はそこに散らかっていた紙を、足で踏んでしまいました。
突然、めったに怒らない兄が大声で諭吉を叱りました。
「おまえが踏んでしまった紙には、殿様の名が書いてある。それを踏むとは何事だ。罰が当たるぞ」諭吉は謝ったものの、殿様を踏んだわけではあるまいしと、馬鹿馬鹿しく思いました。
そしてまたある日のことです。
諭吉はお稲荷さまの前を通りかかりました。
その時、ふと諭吉は、殿様の名を書いた紙を踏んだりしたら罰が当たるぞ、といった兄の言葉を思い出します。
罰が当たるということが本当にあるのかどうか試してみようと思ったのです。
お稲荷さまの前を通る人たちはみなおがんでいきます。
そこで諭吉は、人のいない時を見計らって、こっそり社の戸を開けてみました。
中には石がひとつ置いてあるだけでした。
諭吉は、その石を捨てて、道端にあった他の石ころをかわりに入れておきました。
さすがにそのあと、罰が当たらないかと心配になりましたが、なにも起こりませんでした。
諭吉は思ったことを口にするだけでなく、必ず実行しなければ気がすまないたちの子どもでした。

(つづく)