大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

福澤諭吉伝(5)

2015年08月24日 | 労働者福祉
「事をなすは有力なる政府によるの便利に若(し)かず」と。
答えていわく、「文明を進むるはひとり政府の力のみに依頼すべからず、その弁論すでに本文に明らかなり。
かつ政府にて事をなすはすでに数年の実験あれどもいまだその奏功を見ず、あるいは私の事もはたしてその功を期し難しといえども、議論上において明らかに見込みあればこれを試みざるべからず。
いまだ試みずしてまずその成否を疑う者はこれを勇者と言うべからず


日本で最初に授業料をとった学校は諭吉がつくった慶應義塾大学でした。
何事も官任せでは思うように教育は進まないという諭吉の覚悟が目に浮かびます。
見込みがあればとにかくやってみる!行動なきところにはなにも生まれません。

さて「福澤諭吉伝」のつづきです。

37日間の船旅でようやくたどり着いた一行は、初めて見るアメリカに驚かされます。
「女尊男卑」の風俗などに驚いた諭吉は万次郎に言いました。
「外国語を学ぶということは、外国人と話すということだけではなく、日本とは違う文化を知ることですね」
万次郎はもとは漁師で特に学問を受けてはいませんでしたが、アメリカの文化に接し、ものの見方が広くなっていますのでこう答えました。
「おっしゃるとおりです。国が違うと、言葉だけでなく、考え方も、生活の仕方もまったく違います。それに気づかないで、古いしきたりに囚われてばかりいては、国の進歩はありません」
3月の半ばを過ぎて、使節団は帰国の船出をします。

5月に浦賀についた使節団はとんでもないニュースを聞かされました。
井伊大老が襲われて殺された「桜田門外の変」です。
攘夷派と開国派の争いはますます激化していきます。
翌年の1861年、諭吉は中津藩士の娘「お錦」と結婚しました。
その年の暮れ、ふたたび諭吉は幕府の使節団の一人として、ヨーロッパ諸国をめぐることになりました。
使節団がフランスのマルセーユに着いたのは3月の初めでした。
一行はパリから、イギリス、オランダ、ドイツ、ロシアと旅をして、またパリに戻り、それからポルトガルに行き、フランスの船で日本に帰りました。
旅は約1年に渡りました。
使節団たちにとって、見るもの聞くもの、すべて驚くことばかりでした。
諭吉がもっとも感心したのは、イギリスでは議会というものがあって、保守党と自由党が激しく対立して議論することでした。
それでいて議論が済めば、対立していた二つの党の人々が、食堂で一緒に笑って食事などをしている光景でした。
ところが使節団はだんだんと冷たくあしらわれるようになっていきます。
日本の国内で攘夷派が外国人を襲っているという情報がヨーロッパにも伝わってきたからです。
日本はどうしようもない野蛮な国だと思われたのかもしれません。

(つづく)

宇都宮餃子

2015年08月21日 | グルメ
栃木といえば宇都宮餃子。
浜松市と餃子の消費量イチニを争う街です。
出張会議も無事終了、昼食代わりに宇都宮餃子を食べることとしました。
餃子しか無いんか?と思うくらい、駅前は宇都宮餃子のお店ばかりです。
せっかくだから美味しい餃子を食べたいね、と相方と相談して観光センターを訪ねました。
やはり公的機関ですから、どこが美味いお店とは教えてくれません。
その代わりに「来らっせ」という宇都宮餃子会のアンテナショップを教えてくれました。
そこに行けば代表的な餃子店の出店があるということ。

食べた食べた!もう当分餃子は要りませんね。
常設店5店舗と日替わり出店のコーナーがありましたから、どちらも覗いてきました。

食べた餃子は「龍門焼き餃子」「めんめん羽根付餃子」「香蘭焼餃子」「さつき餃子」「みんみん焼餃子」「高橋餃子」の6種類です。
タレもそれぞれ特製です。
相方と協議の結果、1番は「龍門焼き餃子」2番が「高橋餃子」となりました。

こういうことが出張時の楽しみですね。
帰りの新幹線で隣り合った方々にはご迷惑をおかけしたんでしょね。
栃木のスーパースターU字工事調で「ゴメンねゴメンね!」。

福澤諭吉伝(4)

2015年08月20日 | 労働者福祉
独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり
常に人を恐れ人に諛(へつら)う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。
いわゆる「習い性となる」とはこのことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり。

ひとりでも生きていけるという強い気力と勇気があれば、何びとも恐れることはありません。
労働組合は自由の砦!、人間の尊厳と自由を守るために毅然と闘う気概が必要です。

さて「福澤諭吉」伝のつづきです。

1858年、江戸に着いた諭吉は、藩の江戸屋敷の長屋を与えられました。
諭吉はここに塾をつくり、オランダ語を教えることになります。
日本中の意見が開国と攘夷のふたつに別れており、その対立がますます激しくなっている時期でした。
西洋の学問を勉強しようという諭吉らは、攘夷派にとっては目障りな存在でした。
塾生たちは攘夷派に殺されるかもしれないと不安でしたが、好奇心の強い諭吉は見聞を広めようと横浜に行って驚きます。

1859年、五国条約というものが発布されたので、横浜はまさしく海港したばかりでした。
看板の字も、話している言葉も、すべて英語で、これまで学んできたオランダ語が役に立ちません。
そこであらためてヨーロッパの事情を調べてみると、いまや世界をリードしているのはアメリカとイギリスであると分かりました。
これからは英語がわからないと世界についていけないと気づいた諭吉は、英語の勉強をしようと英語力のある幕府の役人の弟子となります。
しかしいろいろと努力しても満足な勉強にはなりませんでした。

英語の勉強に悩む諭吉は、幕府が「日米修好通商条約」を交換するために、使節をアメリカに派遣することを知りました。
諭吉は知り合いを通してアメリカへ向かう船「咸臨丸」に乗り込む軍艦奉行の木村摂津守にアメリカ行きを願い出ました。英語を話せる諭吉の同行は許可され、1860年1月「咸臨丸」は船出しました。
同乗する日本人の中には勝海舟やアメリカ帰りの中浜万次郎らがいました。

(つづく)

福澤諭吉伝(3)

2015年08月19日 | 労働者福祉
かかる愚民を支配するにはとても道理をもって諭(さと)すべき方便なければ、ただ威をもって畏(おどす)のみ。
西洋の諺(ことわざ)に「愚民の上に苛(から)き政府あり」とはこのことなり。
こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災(わざわい)なり。
愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。
ゆえに今わが日本国においてもこの人民ありてこの政治あるなり


痛烈な批判は現代でも立派に通用します。

さて福澤諭吉伝のつづきです。

1855年、20歳になった諭吉は、緒方洪庵の適塾をおとずれました。
明治維新の13年前のことです。
この頃、各地から適塾に学びに来ていた若者のなかには、その後、幕末から明治にかけて日本を動かした人物がたくさんいました。
そのなかの一人に越前福井藩からきていた医者の橋下左内がいました。
諭吉はこの左内の人柄に打たれて大変尊敬をしました。
のちに佐内は、福井に帰って松平春嶽という殿様に仕え、藩の政治改革をすすめ、さらには日本の近代化を図るなどの働きをします。
しかしそれが、幕府の大老井伊直弼に咎められ、吉田松陰らとともに死刑にされてしまいます。
この時諭吉は、幕府の政治を批判することを許さないという封建制度に、心からの憤りを覚えました。

諭吉が適塾に入ってから2年後のことです。
兄の三之助が急死し、藩から家を継ぐようにとの命令が下されます。
諭吉は家に帰りますが、三之助の医療費がかさんで大変な額の借金が残されていました。
そのうえ藩の仕事といえば、身分の低い福沢家代々の仕事で、蘭学を勉強したことなど少しも生かせません。
諭吉は母に相談して、再び大阪の適塾に行く決心を固めます。
親戚中の猛反対を押し切って、家財や大量にあった貴重な蔵書を売り払って借金を返済し、母の援助を受けながら諭吉は適塾へ戻りました。

蘭学に詳しく、人柄も明るく親切な諭吉は、やがて、仲間に押されて塾長になりました。
塾長というと生真面目で勉強ができるだけの人物が多いのですが、この塾長は酒が好き、議論好き、宴会好き、ということで大変な人気者でした。
夏はまっぱだかで物干しの上で大酒を飲み、あるときは洪庵の奥さんの前へも裸で出るという大失敗をしたりもします。
こうして生き生きと適塾で学び、かなりの知識を得ていった諭吉の名が高まると、中津藩も諭吉をほっておけなくなり、蘭学の教師として江戸へ呼ぶことになりました。
「よし、これからは若い優秀な学生を育てていこう」と諭吉の胸は大きくふくらみます。

(つづく)

福澤諭吉伝(2)

2015年08月18日 | 労働者福祉
また自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり
わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず、ひとり自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易(こうえき)のこと始まり、今日の有様に及びしことにて、開港の後もいろいろと議論多く、鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、諺に言う「井の底の蛙(かわず)」にて、その議論とるに足らず。
日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海をともにし、空気をともにし、情合い相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸いを祈り、天理人道に従いて互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴(こくど)にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄(す)てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。

もの凄く強烈な「独立自尊」の考え方に惚れ惚れします。

さて福澤諭吉伝のつづきです。

1854年、兄の三之助が仕事で長崎にいくことになりました。
諭吉が19歳の時です。
三之助は諭吉に一緒に長崎へ行くことを勧めてくれました。
ちょうどその頃は、ペリーの来た時で、アメリカの軍艦が江戸に来たと大騒ぎしていた時でもあり、同時に砲術のことがよく議論されていました。
「これからは外国語が読めなくてはいけない。私と一緒に長崎へ行って、オランダ語の勉強をするといい」諭吉は兄の言葉に感激して、兄と一緒に長崎に行くことにしました。
幕府は「鎖国令」を出していましたから、貿易もオランダと中国だけと決め、長崎の港に出入りを許していました。
長崎の出島には「オランダ屋敷」が築かれ、そこにはたくさんの洋書があり、勉強をしようという志を抱いた若者たちが各藩からいっぱい来ていました。
諭吉は家老の息子である奥平壱岐が借りていた町中の寺の一室を借りました。
しかし諭吉の学問が進むにつれて、これを妬んで壱岐は上役のように振る舞い始めます。
嫌になった諭吉は長崎奉行所の役人である砲術家の山本物次郎の家の玄関番をすることにして、家老の息子から離れました。
山本家で諭吉はあらんかぎりの仕事を働き、なんでもしましたから、最後には養子に来ないかとまで言われるようになります。

江戸湾に浮かんだアメリカの4隻の大きな黒船によって、日本は泰平の眠りを覚まされました。
外国との戦争に備えて、各藩は日本よりも進んでいる西洋の砲術を学ばなければなりません。
そうした武士たちが山本家に大勢学びに来ていました。
西洋の砲術を学ぶのには、オランダ語が分からなければなりません。
諭吉は三之助が戻ってからも、オランダ語を長崎の通訳や、山本物次郎について熱心に学び続けました。
諭吉のオランダ語はめきめき上達し、各藩から長崎に来ていた学生たちの間でも有名になっていきます。

そんな矢先のことです。
突然、親戚から母が病気だから帰ってくるようにとの手紙が来ます。
しかしこれは諭吉の成功を妬んだ家老の息子の企みでした。
父に頼んで長崎を引き上げさせたのです。
上からの命令ならば従わなければなりません。
諭吉は命令通り長崎は引き上げますが、それならば一旦大阪へ戻ったのちに江戸へ行って勉強しようと考えました。
大阪に着いて兄に相談すると、江戸へ行かなくとも大阪に有名な蘭学の先生がいることを知らされます。
江戸からも多くの武士が学びに来ているという緒方洪庵のことでした。

(つづく)