大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

福澤諭吉伝(8)

2015年08月27日 | 労働者福祉
学問に入らば大いに学問すべし。
農たらば大農となれ、商たらば大商となれ

学者小安に安んずるなかれ。
粗衣粗食、寒暑を憚(はばか)らず、米も搗(つ)くべし、薪も割るべし。
学問は米を搗きながらもできるものなり。
人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を食らい味噌汁を啜(すす)り、もって文明の事を学ぶべきなり。

学業であろうが、農業であろうが、商業であろうがとにかく徹底して事に臨みなさい。
できない理由や言い訳は無用だ!と喝を入れられた思いです。

さて「福澤諭吉伝」のつづきです。

1873年、森有礼、西周ら知識人たちが、明六社という団体をつくり、教養雑誌「明六雑誌」を刊行しますが、諭吉もその一人として、意見や研究を発表しました。
この年、フランスから中江兆民が帰国して、フランスで叫ばれている「自由・平等」の思想を、この国にも広げようとしました。
また、諭吉と同じく幕府に仕えた洋学者の加藤弘之は雑誌で、「人は生まれながらにして自由平等で幸福を求める権利がある」という意見を発表しました。
これを「天賦人権説」といいます。
当時の日本社会は、役人と見れば卑屈になって腰をかがめてものを言い、相手が貧しい商人と見れば威張った口の利き方になるような風潮でした。
人は皆平等なのに、どうして相手によって態度を変えるのか、諭吉はつくづく教育の必要性を感じずにはいられませんでした。
明六社はこの自由と平等の思想を推し進めるためにも大きな役割を果たしました。
弟子の一人が、「明六雑誌で自由平等を唱えるのは結構だが、雑誌を読まない人も大勢います。
これからは民衆を集めて話をすることも大切ではないでしょうか」と言って、1冊の原書を諭吉に渡しました。その原書は、「スピーチ」について書いてある本でした。
早速その本を翻訳し、「スピーチ」に「演説」という言葉を当てはめ、その他に「討論」「可決」「否決」などという新語をつくります。
翻訳を終わると、諭吉は塾生を集めて演説の練習をはじめ、翌年の1874年には、「三田演説会」をつくって、学者や塾生たちと、自由、平等、そのほか社会問題などについての討論会を開きました。
この三田演説会は、やがて、国会の開設や、選挙による議会政治の方針を進める役割を果たすことになりました。

諭吉は尊皇攘夷派から、西洋かぶれと、その命を狙われましたが、諭吉の「学問のすすめ」も、その本当の精神は、個人の独立にあり、国家の独立にありました。
諭吉は「独立自尊」という言葉も、しばしば口にしていました。
封建主義は、個人の独立を許しません。
独立心のない人々の集まりである日本が、どうして独立国として、世界の中で胸を張って生きていけるのか、と、諭吉は考えていました。
諭吉が洋学を学んだのは、決して西洋かぶれからではなく、西洋の文明を取り入れて、早く日本も外国に劣らない独立国とならなければならないと思ったからです。

(つづく)

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