ゆえに学問の本趣意は読書のみにあらずして、精神の働きにあり。
この働きを活用して実地に施すにはさまざまの工夫くふうなかるべからず。
オブセルウェーションとは事物を視察することなり。
リーゾニングとは事物の道理を推究して自分の説を付くることなり。
この二ヵ条にてはもとよりいまだ学問の方便を尽くしたりと言うべからず。
なおこのほかに書を読まざるべからず、書を著わさざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かいて言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽くしてはじめて学問を勉強する人と言うべし。
すなわち視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書、演説はもって智見を散ずるの術なり。
学問の本来趣旨はただ読書にあるのではなく、精神の働きにあります。
その働きを活用して実施に移すには工夫が必要です。
物事を観察し、物事の道理を推理して、自分の意見を立てることです。
もちろん本を読み、本を書き、人と議論して、人に向かって自分の考えを説明できなくてはなりません。
さて「福澤諭吉伝」のつづきです。
ようやく日本は、諭吉の願っていた新しい国となってきました。
しかし新政府では、政治の舵取りをどうするかについて、大きな対立が出てきました。
かつての親友であり同志でもあった、大久保利通と西郷隆盛の対立です。
1877年、とうとう「西南戦争」が起こり、薩摩軍は破れ、西郷も自決します。
翌年、大久保も西郷を慕う不平士族に暗殺されてしまいます。
西郷、木戸、大久保という「維新の三傑」とよばれたリーダーを失い、混乱する新政府を見て、板垣退助や後藤象二郎らは、国民の選んだ議員による議会をつくれという意見書を出しました。
諭吉は国会を開くことに大賛成ですが、その諭吉に政府が発行する新聞の編集を頼みに、伊藤博文、井上馨、大隈重信の3人がやってきました。
諭吉は政府の目的が国会を開くための用意であると聞かされて一旦は受けますが、その後自由民権派である大隈派が政府から追い出されたことを知り(政府を追われた大隈は、学問の自由を掲げて東京専門学校のちの早稲田大学を建てます)、政府の新聞ではなく、自由な意見を書くことができる「時事新報」を、1882年発行します。諭吉47歳の時です。
この年、自由民権運動を広めるため、岐阜で演説をしていた板垣退助が反対派に刺されます。
その時、「板垣死すとも、自由は死せず」と叫んで人々を感動させましたが、まだまだ日本の世情は不安定でした。
諭吉の下で多くの門下生が育ちました。
この多くの門下生たちは、やがて日本を背負っていくことになります。
(つづく)
この働きを活用して実地に施すにはさまざまの工夫くふうなかるべからず。
オブセルウェーションとは事物を視察することなり。
リーゾニングとは事物の道理を推究して自分の説を付くることなり。
この二ヵ条にてはもとよりいまだ学問の方便を尽くしたりと言うべからず。
なおこのほかに書を読まざるべからず、書を著わさざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かいて言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽くしてはじめて学問を勉強する人と言うべし。
すなわち視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書、演説はもって智見を散ずるの術なり。
学問の本来趣旨はただ読書にあるのではなく、精神の働きにあります。
その働きを活用して実施に移すには工夫が必要です。
物事を観察し、物事の道理を推理して、自分の意見を立てることです。
もちろん本を読み、本を書き、人と議論して、人に向かって自分の考えを説明できなくてはなりません。
さて「福澤諭吉伝」のつづきです。
ようやく日本は、諭吉の願っていた新しい国となってきました。
しかし新政府では、政治の舵取りをどうするかについて、大きな対立が出てきました。
かつての親友であり同志でもあった、大久保利通と西郷隆盛の対立です。
1877年、とうとう「西南戦争」が起こり、薩摩軍は破れ、西郷も自決します。
翌年、大久保も西郷を慕う不平士族に暗殺されてしまいます。
西郷、木戸、大久保という「維新の三傑」とよばれたリーダーを失い、混乱する新政府を見て、板垣退助や後藤象二郎らは、国民の選んだ議員による議会をつくれという意見書を出しました。
諭吉は国会を開くことに大賛成ですが、その諭吉に政府が発行する新聞の編集を頼みに、伊藤博文、井上馨、大隈重信の3人がやってきました。
諭吉は政府の目的が国会を開くための用意であると聞かされて一旦は受けますが、その後自由民権派である大隈派が政府から追い出されたことを知り(政府を追われた大隈は、学問の自由を掲げて東京専門学校のちの早稲田大学を建てます)、政府の新聞ではなく、自由な意見を書くことができる「時事新報」を、1882年発行します。諭吉47歳の時です。
この年、自由民権運動を広めるため、岐阜で演説をしていた板垣退助が反対派に刺されます。
その時、「板垣死すとも、自由は死せず」と叫んで人々を感動させましたが、まだまだ日本の世情は不安定でした。
諭吉の下で多くの門下生が育ちました。
この多くの門下生たちは、やがて日本を背負っていくことになります。
(つづく)