大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

福澤諭吉伝(4)

2015年08月20日 | 労働者福祉
独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり
常に人を恐れ人に諛(へつら)う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。
いわゆる「習い性となる」とはこのことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり。

ひとりでも生きていけるという強い気力と勇気があれば、何びとも恐れることはありません。
労働組合は自由の砦!、人間の尊厳と自由を守るために毅然と闘う気概が必要です。

さて「福澤諭吉」伝のつづきです。

1858年、江戸に着いた諭吉は、藩の江戸屋敷の長屋を与えられました。
諭吉はここに塾をつくり、オランダ語を教えることになります。
日本中の意見が開国と攘夷のふたつに別れており、その対立がますます激しくなっている時期でした。
西洋の学問を勉強しようという諭吉らは、攘夷派にとっては目障りな存在でした。
塾生たちは攘夷派に殺されるかもしれないと不安でしたが、好奇心の強い諭吉は見聞を広めようと横浜に行って驚きます。

1859年、五国条約というものが発布されたので、横浜はまさしく海港したばかりでした。
看板の字も、話している言葉も、すべて英語で、これまで学んできたオランダ語が役に立ちません。
そこであらためてヨーロッパの事情を調べてみると、いまや世界をリードしているのはアメリカとイギリスであると分かりました。
これからは英語がわからないと世界についていけないと気づいた諭吉は、英語の勉強をしようと英語力のある幕府の役人の弟子となります。
しかしいろいろと努力しても満足な勉強にはなりませんでした。

英語の勉強に悩む諭吉は、幕府が「日米修好通商条約」を交換するために、使節をアメリカに派遣することを知りました。
諭吉は知り合いを通してアメリカへ向かう船「咸臨丸」に乗り込む軍艦奉行の木村摂津守にアメリカ行きを願い出ました。英語を話せる諭吉の同行は許可され、1860年1月「咸臨丸」は船出しました。
同乗する日本人の中には勝海舟やアメリカ帰りの中浜万次郎らがいました。

(つづく)