大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

福澤諭吉伝(2)

2015年08月18日 | 労働者福祉
また自由独立のことは人の一身にあるのみならず、一国の上にもあることなり
わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、古来外国と交わりを結ばず、ひとり自国の産物のみを衣食して不足と思いしこともなかりしが、嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易(こうえき)のこと始まり、今日の有様に及びしことにて、開港の後もいろいろと議論多く、鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども、その見るところはなはだ狭く、諺に言う「井の底の蛙(かわず)」にて、その議論とるに足らず。
日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海をともにし、空気をともにし、情合い相同じき人民なれば、ここに余るものは彼に渡し、彼に余るものは我に取り、互いに相教え互いに相学び、恥ずることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いにその幸いを祈り、天理人道に従いて互いの交わりを結び、理のためにはアフリカの黒奴(こくど)にも恐れ入り、道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄(す)てて国の威光を落とさざるこそ、一国の自由独立と申すべきなり。

もの凄く強烈な「独立自尊」の考え方に惚れ惚れします。

さて福澤諭吉伝のつづきです。

1854年、兄の三之助が仕事で長崎にいくことになりました。
諭吉が19歳の時です。
三之助は諭吉に一緒に長崎へ行くことを勧めてくれました。
ちょうどその頃は、ペリーの来た時で、アメリカの軍艦が江戸に来たと大騒ぎしていた時でもあり、同時に砲術のことがよく議論されていました。
「これからは外国語が読めなくてはいけない。私と一緒に長崎へ行って、オランダ語の勉強をするといい」諭吉は兄の言葉に感激して、兄と一緒に長崎に行くことにしました。
幕府は「鎖国令」を出していましたから、貿易もオランダと中国だけと決め、長崎の港に出入りを許していました。
長崎の出島には「オランダ屋敷」が築かれ、そこにはたくさんの洋書があり、勉強をしようという志を抱いた若者たちが各藩からいっぱい来ていました。
諭吉は家老の息子である奥平壱岐が借りていた町中の寺の一室を借りました。
しかし諭吉の学問が進むにつれて、これを妬んで壱岐は上役のように振る舞い始めます。
嫌になった諭吉は長崎奉行所の役人である砲術家の山本物次郎の家の玄関番をすることにして、家老の息子から離れました。
山本家で諭吉はあらんかぎりの仕事を働き、なんでもしましたから、最後には養子に来ないかとまで言われるようになります。

江戸湾に浮かんだアメリカの4隻の大きな黒船によって、日本は泰平の眠りを覚まされました。
外国との戦争に備えて、各藩は日本よりも進んでいる西洋の砲術を学ばなければなりません。
そうした武士たちが山本家に大勢学びに来ていました。
西洋の砲術を学ぶのには、オランダ語が分からなければなりません。
諭吉は三之助が戻ってからも、オランダ語を長崎の通訳や、山本物次郎について熱心に学び続けました。
諭吉のオランダ語はめきめき上達し、各藩から長崎に来ていた学生たちの間でも有名になっていきます。

そんな矢先のことです。
突然、親戚から母が病気だから帰ってくるようにとの手紙が来ます。
しかしこれは諭吉の成功を妬んだ家老の息子の企みでした。
父に頼んで長崎を引き上げさせたのです。
上からの命令ならば従わなければなりません。
諭吉は命令通り長崎は引き上げますが、それならば一旦大阪へ戻ったのちに江戸へ行って勉強しようと考えました。
大阪に着いて兄に相談すると、江戸へ行かなくとも大阪に有名な蘭学の先生がいることを知らされます。
江戸からも多くの武士が学びに来ているという緒方洪庵のことでした。

(つづく)