大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

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福澤諭吉伝(7)

2015年08月26日 | 労働者福祉
そもそも人の勇力はただ読書のみによりて得べきものにあらず。
読書は学問の術なり、学問は事をなすの術なり
実地に接して事に慣るるにあらざればけっして勇力を生ずべからず。

勇気はただ読書しても得られるものではありません。
読書は学問の技術であって、学問は物事を成すための技術です。
だから実際に事に当たって経験を積まなければ、勇気は生まれません。

さて「福澤諭吉伝」のつづきです。

1870年、35歳になった諭吉は、塾生も増え、手狭になった校舎をなんとかしなくてはと思いました。
暇があると市内の空き地を探し回り、芝の三田にある島原藩の中屋敷のあとに目を付けます。
そこで東京府から依頼されていたヨーロッパの警察制度の調査を引き受ける代わりに、その見返りとして島原藩の跡地を借りることとしました。
そこに建てられた立派な校舎が今の慶應義塾大学です。諭吉36歳の時でした。

翌1872年、諭吉は暇を見つけては書き記してきた「学問のすすめ」を出版しました。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、この本をはじめて手に取った者はみな、新しい時代の到来を高らかに謳い上げる冒頭の一節に、大きな衝撃を受けました。
身分社会が長く続いた我が国にあって、どこにこのような平等思想を声高に叫ぶ人間がいたでしょうか。
この本は、新しい日本はどうあればよいのかと考える人々の間でむさぼるように読まれ、1876年までに17篇が書き綴られました。
「学問のすすめ」は、小学校の教科書としても使われるようになります。
「学問のすすめ」をきっかけとして庶民の学習熱も高まり、西洋文化の受け入れが進んでいったことで、国民全体の急速な文明開化が実現していきます。
それと同時に、権利意識に対する目覚めは政治への関心を呼び起こし、やがてそれは後の自由民権運動へとつながっていきます。

(つづく)

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