大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

日本と世界・世界と日本

2015年02月23日 | 日々徒然
いつも見慣れている世界地図では、日本は真ん中にあります。
でも世界標準があるとすれば正面には緯度ゼロのイギリスがくるでしょう。
下の世界地図がそれです。
この地図を見ていると、日本政府がイスラム国紛争に前のめりになるのが不可解に思えます。
緯度を決めた基点はイギリスのグリニッジ天文台ですし、この世界はこれまで人類の歩みと共に、アングルサクソンが富と権力を握ってきました。
彼らにとって極東日本は経済的な価値が無くなれば、浮沈空母の役割以外無価値になるやもしれません。
グラーバル化し多極化した世界、アジアのなかで有色人種と共に生きていく日本という選択肢はないものでしょうか?

さらに世界地図を球体で眺めてみても面白いですね。

地表の7割を海が占めています。
太平洋・インド洋・大西洋を地図上で眺めながら思いを高く飛ばしてみましょう。
歴史ドラマ「花燃ゆ」の主人公たちは狭い日本から外へ向けて思いを開放していきました。
歴史年表を横に置いて時代を遡ってみるのもいいですね。

さてみなさんはどう感じましたか?

歴史の裏側から見えるもの

2015年02月20日 | 歴史
国会論戦でイスラム国による人質殺害事件の真相が明らかになるだろうと期待していましたが、政府はのらりくらりと事実を隠蔽しようとしています。
トルコの外務相が共同通信との記者会見で、日本政府にはすべての情報を提供していたと証言していても、政府はそのことに関しては答えられない、の一点張りです。
このやりとりをきいて、背中がゾッとしてきました。
日本人は農耕民族のお人好しですから、歴史の中で騙されてばかりきました。
歴史の裏側からみると実によくわかります。

忌まわしい戦争はあるとき一瞬にして起こります。
満州事変の引き金を引いた柳条湖事件は、関東軍による謀略でした。
日中戦争の引き金を引いた盧溝橋事件も、夜中に響き渡った一発の銃声です。
太平洋戦争の引き金を引いた真珠湾攻撃も、ルーズベルトによる陰謀でした。

ルーズベルトは劣勢で敗色濃い英国のチャーチルから支援を求められますが、アメリカ世論は厭戦気分で参戦など到底無理な状況でした。
そこでルーズベルトは世論を戦争へ導くために大きな仕掛けを考えます。
ハワイは、日本海軍をおびき寄せるための大きな仕掛けだったのです。
そのあたりのことは「はめられた真珠湾攻撃」を読んでいただくとよく分かります。

もうひとつみなさんにぜひ見ていただきたい映像があります。
英国BBCがつくったドキュメンタリーを、1989年12月8日にNHKで放映した番組です。
真珠湾攻撃を防御されるとせっかくの演出効果が薄れるために、ハワイ島防衛の責任者であるキンメル長官は情報を一切与えられていませんでした。
そのために日本海軍の奇襲は成功し、キンメル長官はアメリカ国民から非難され、罷免されます。
NHKスペシャル 真珠湾攻撃~暗号を解いた情報部員たち~

歴史に“たられば”はありませんが、もしあの時、日本が軍縮に応じていれば、輸入全面禁止に耐え抜いていれば、世界の歴史は変わったかもしれません。
もしあの時、真珠湾におびき出されなければ、東京に4万8千発の焼夷弾が落ちることも、長崎と広島に人類史上最悪の地獄図をみることもなかったかもしれません。

今年は戦後70周年です。
イスラム国騒動に振り回されず冷静になって、あらためて歴史を振り返ってみましょう。
戦争に引きずり込まれることだけは、なんとしても阻止しなければなりません。

対話のすすめ

2015年02月19日 | 日々徒然
「語り部育成ゼミ」にしろ「協同組合間協同実践研究会」にしろ、およそ人が集まるところには対話が生まれます。
「目は口ほどにモノを言い」なんてことをいいますが、あれはウソですね。
思ったことは口に出して伝えなければ、いくら目力があっても相手にその思いは伝わりません。
問題はそれをうまく伝えるスキルです。
対話スキルの初歩は挨拶からです。
みなさん、元気に挨拶してますか?

守破離を重んじる書道・茶道・武道など道のつく習い事では、「師匠が白と言えば黒も白だ」と言われます。
それだけを聞くととんでもないことですが、要は「この世界では師匠の言うことをまずは守りなさい」ということですね。
その表現が、「黒でも白」になるわけですが、相手側に“上達したい”という強い目標がないと言葉尻だけをとらえられて反発を招きます。
だから人によってその伝え方にも工夫が必要です。

私たちの運動(どう)も、道(どう)に近いものがあります。
守破離と同様に、ある一線を超えたところから、労働(守)から活動(破)に変化し、活動から運動(離)に変化していきます。
変化が進むほどボランタリーな領域に一歩ずつ踏み込んでいきます。
だからこそ人々に共感や感動を与えていくものだと私は思います。

その「理念」や「ビジョン」を持ったリーダーは、それを口に出して伝えなければなりません。
目は口ほどにモノを言いませんから、対話を通じて部下とそれらを共有します。
すべてはそこから始まります。
現在の活動で決定的に足りないことは、そうした対話活動のスキルです。

現在の私自身の自己啓発のテーマは「対話力の向上」です。
アラカンの足掻きですかねぇ…。

賀川豊彦伝(11)

2015年02月18日 | 労働者福祉
集団的自衛権の行使についてまた拡大解釈がなされそうな雰囲気です。
あれだけ大騒ぎして閣議決定したのに、なぜか今回は公明党もすんなりと容認するような報道すらもあります。
与党協議で議論された事例は8つでした。
1、日本人輸送中のアメリカ輸送艦の防護
2、武力攻撃を受けている米艦防護
3、周辺事態等における強制的な船舶検査
4、米国に向け日本上空を横切る弾道ミサイル迎撃
5、弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護
6、アメリカ本土が武力攻撃を受け、日本周辺で作戦を行う米艦防護
7、国際的な機雷掃海活動への参加
8、民間船舶の国際共同護衛
しかし今回提出されるであろう恒久法では、米軍以外の他国軍隊も支援対象にすることで政府内は合意されているというではありませんか。
まさに入口で嘘をついて承認させてから法を広げていくという、「労働者派遣法」や「残業代ゼロ法案」と同様の姑息な手の内にはうんざりします。
正々堂々とした論戦を期待します。

さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

1923年9月1日、東京で起こった大地震によって大火災が起き、10万人の人が死に、数十万人以上の人が家を失いました。
賀川らは直ちに関東大震災の救援に取り掛かります。
この大震災は日本人を団結させました。
労働紛争の相手側である川崎造船所も、上海行の船を急遽変更し、積荷を救援物資に積み替えて賀川ら労働者のリーダーを乗せて東京湾へ向かいました。
賀川が横浜と東京とで目撃した廃墟は、スラム街の地獄以上に恐ろしいものでした。
賀川はスラムに注いでいたのと同じ猛烈な精力を傾けて救援活動にあたりました。
破壊された都市の被害状況を確認すると彼は神戸に帰ります。
救援活動に必要なお金を捧げるためです。
いたるところで講演したり、自分の大切な蔵書を売ったりして目処をつけると、妻と赤ん坊を伴って寝具類を持って東京に戻ります。
東京でも彼は「求めなさい。そうすれば与えられます」という聖書の命令に従って、多くの人に援助を求めます。
何ヶ月も経たないうちに、彼は、粗末なバラックの建物の中で、基督教産業青年会(YMCA)を始める手伝いをします。
このYMCAは、直ぐにこの地域の人々の生活支援のための多様なプログラムをスタートさせました。

賀川の名声はますます大きくなり、彼を危険人物として見ていた政府も彼を無視できなくなりました。
問題に通じており組織能力の高い賀川豊彦と鈴木文治は、首相が議長を務める110人の諮問委員からなる、新設の帝国経済会議の議員に任命されます。
賀川は社会改革のための議案通過を運動するのに極めて良い立場に立ち、成年男子普通選挙権法の制定、健康保険法の可決、旧工場法の修正などが陽の目を見ました。

日本と西欧の関係悪化が広がることを憂いた賀川は、最悪の戦争回避に向けて行動します。
事実、キリスト教平和主義者としての国際的名声が高まっていましたから、日本と西欧間に調和をもたらす点で、彼は重要な役割を果たしました。
賀川は、日本と日本人とを他の国々に説明することによって日本に対する好意を得ようと考えたのです。
1924年11月、全米大学連盟の招きにより賀川は講演旅行に旅立ちます。
賀川は数多くの都市で講演し、1925年6月、長期間の旅から帰国します。

(つづく)

賀川豊彦伝(10)

2015年02月17日 | 労働者福祉
明治の時代を生きた人々は実に面白い。
賀川豊彦を学ぶうちにこれまで知らなかったたくさんの人々に出会いました。
斎藤緑雨もその一人で、明治の小説家・評論家であり、ニヒルな毒舌家でもあります。
数多い緑雨の名言から3つ拾ってみました。

馬鹿が馬鹿を馬鹿といえば、馬鹿が馬鹿を馬鹿だという。
馬鹿で持ったる我が世なり。

拍手喝采は人を愚にするの道なり。
努めて拍手せよ、努めて喝采せよ。
彼おのずから倒れん。

「寒い晩だな」「寒い晩です」
妻の慰めとは、まさにかくの如きなり。


さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

当時の農業は小作人の労働の犠牲の上に成り立っていました。
多くの地主は小作人から搾り取るばかりで、地域社会の面倒を見るといった古くからある家父長主義的な思考を持たない不在地主が増えていました。
これら不在地主に対しての憤慨は高まっており、小作人組合が結成され、対地主争議が勃発していました。
賀川は1921年に日本農民組合を設立しますが、その初代組合長として農業を学んだ経験を持つ牧師「杉山元次郎」を見出します。
この杉山は後に衆院議員に7回当選し、1955年には衆議院副議長になる人物です。
賀川は組織化のため全国縦断の講演旅行に飛び歩きますが、その講演会には千人以上の農民が、ある人々は12キロも歩いて話を聞きにやってきたそうです。
1923年には数万の会員と百を超える支部に発展していきました。
農民は非常に具体的な講義のプログラムや農民学校に惹きつけられていました。
数年をかけて賀川は、何千もの農民に実用的なまた宗教的な訓練を施すために「農民福音学校」と農村センターを設立していきます。
富士山の壮大な眺めを持つ御殿場には、福音学校と豚肉処理設備を持つ重要な農村センターがつくられました。

この畜産加工技術から今日の「高崎ハム」が産まれたのです。
賀川の農村のための長期的計画は、小作法、地代軽減に始まり、次いで農民に貸付金、農機具、市場、また近代農業発達によるあらゆる便宜を与える経済政策などの、一連の農村改革でした。
現在ある農業協同組合は、農村地帯にこれを達成するための手段でした。

賀川は組織作りをし、講演をし、著作活動を続けました。
この期間にも彼は大阪で労働学校設立に尽力し、1922年開校、成功裡のうちに運営されていきます。
また被差別民を助ける仕事も始めていきました。
政治的には、議会制民主主義を通して、商業組合や消費組合等、社会改革を徐々に推し進める努力を続けていました。
それが資本主義による悲惨さから国を救い、政治的経済的平等の社会制度に導く最も実際的な道であると信じていたからです。
しかしこの希望は、右翼政府と軍部の圧力や、労働者層の分裂によって打ち砕かれていきます。
政府は数年のうちに民主主義に対する彼の夢を打ち砕いただけでなく、1930年代には日本を満州と中国との戦争に導き、遂には第2次世界大戦へ突入していきました。

(つづく)