大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

賀川豊彦伝(9)

2015年02月16日 | 労働者福祉
『「成果で賃金」来年春にも』の大見出し…とうとう押し切られてしまったか!率直な感想です。
労働基準法第三十二条の文言が変えられてしまいます。
「使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない」
年収1075万円超える専門職だけだからまあいいさ…などと甘く考えていると大変なことになります。
1本の法律が社会を変える」は“南町の独り言”で書いたブログ記事ですが、1985年に制定された労働者派遣法は13業務にのみ例外的に派遣を認めるというものでした。
それが今では原則自由です。
そのせいで日本の雇用環境はどうなったでしょうか?
週40時間労働の規制を破る労働時間法制の変更は、我が国の労働法制全般を揺るがせるやもしれません。

でもこのままで終わっちゃうと、賀川豊彦はじめとする先人たちに合わせる顔もありませんね。
せめて36協定の特別条項廃棄運動でもやってみませんか?

さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

賀川は先進的な労働運動を展開していきます。
友愛会のなかに労働者の四大権利である「生存」「団結」「ストライキ」「参政権運動」を要求する運動を展開しました。
また友愛会の中心目標にILOの「国際労働9原則」を取り入れました。
確信を持って活動する賀川に対し厳しい政府の弾圧が加えられていきます。
軍産複合体の心臓部である造船をはじめとする港湾と製造分野での団体交渉やストライキがきっかけでした。
全国的に知られている賀川はいつも団体交渉の最前線にいました。
労働者の多くは臆病で封建的な依存に安住しているため、賀川ら知識人の先導に頼っていたのです。
これは当時の組合意識がいかに未発達であったかを示すものです。

1921年の長く暑い夏は、5月の大阪藤永田造船所でのストライキから始まりました。
主要な争点は、会社が組合を認め、これと団体交渉をせよというものでした。
この交渉が紛糾し、警官隊との衝突まで招きます。
闘争は神戸港全体に広がっていきます。
そして7月10日、賀川と労働運動の指導者たちが計画した、およそ3万5千人が10キロ以上に渡って行進する大規模なデモが行われました。
長期間に渡るストライキは次第に労働者を追い込んで行きました。
1921年7月26日、ストライキが解体し始めます。
警官との乱闘で170人が逮捕されました。
警察の圧力によって公の集会が禁止されましたので、賀川らは新しい戦術を考え出します。
労働運動の集会ではなく、集団で神社参拝をするのです。
賀川はこのような「宗教的」な集会で演説を始めました。
7月28日には一万人以上が幾つかの神社に分かれて集会を開きました。
警察はストライキ本部の手入れを行い、賀川ら組合の指導者多数を逮捕します。
賀川の投獄中、ストライキ参加者は降伏し、仕事に戻っていきます。
賀川は次第に組織からうとんぜられるようになり、労働運動というものと疎遠になっていきます。

彼はその後、実質的に都市の労働運動への関わりを減らしましたが、労働運動の未来に希望を捨てたわけではありませんでした。
農村に育ち、農村生活の直接的ジレンマを知っている賀川は農村に注目し始めます。
労働者は最終的には暴力への呼び掛けを拒否し、立法による社会変革を企てるだろうと彼は考えていました。
その長期的戦略は都市労働者と農民の間に共同戦線を発展させるというものでした。

(つづく)