大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

賀川豊彦伝(6)

2015年02月05日 | 労働者福祉
賀川豊彦は生涯通して特級品のパイオニアでした。
パイオニアには3つの特徴があります。
一つは確信性です。自らの道を確信して疑わず、まっしぐらに走りました。
二つ目は実践性です。考えるだけでなく、言うだけでなく、自らが先頭に立って行動しました。
三つ目は時代を先取りする創意性です。その源は百科事典まで含めて図書館の蔵書を総なめにしたぐらいのとてつもない知識欲と好奇心にあります。

少しぐらいの壁に突き当たって、へなへなしてしまう現代のリーダーたちとは大違いですね。


さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

賀川はアメリカの労働運動のひとつの激動期に米国にいました。
後に日本に帰ってきて労働運動や農民運動を指導するための経験をユタ州のオクデンという小さな町で学びます。
帰国する旅費を稼ぐためにユタ州の日本人会の書記として働き始めた時です。
彼は事務の仕事をしながら、日本人の村落を巡回しました。
当時ユタ州では甜菜(砂糖大根)の栽培と加工が経済の中心であり、史上最高の操業状況でした。
農場労働者の粗末な家々を訪問し、小作農の人々の不満をいくつも耳にします。
農民たちは地主に対して支払いの増額を求めていましたが、モルモン教徒である地主たちはモルモン教徒の小作人たちと日本人を張り合わせようとするため、なかなか増額は認められませんでした。
そこで賀川は何とか両者を説得してひとつの小作人組合に加入させます。
それから地主と交渉しますが、地主たちがこれを拒否したので、春の種まき時期に労働をボイコットしたのです。
とうとう組合は地主から増額を勝ち取ります。

当時の米国労働総同盟(AFL)は、1日8時間労働と児童労働禁止の立法のために、国レベルで議会に圧力をかけている時代でした。
後に仲間となる鈴木文治も、米国の労働運動の指導者たちから労働組合の組織について学んでいました。
しかし米国の労働運動にとっても、また日米関係にとっても困難な時代でした。
米国労働総同盟の大会は、米国における日本人の労働と雇用のボイコットを支持する決議を採択します。
複雑な思いで帰国した賀川でしたが、「日本を救う道は、民主的労働組合の他に道はない」という彼の決意は揺るぎはしませんでした。

賀川は1917年5月、第一次世界大戦のため俄かに景気づいていた神戸に戻ってきました。
ここから彼の運動はスラムの救済を目的とした伝道や活動から脱皮し、貧困に社会問題として取り組み始めます。
彼はこの絶望的な貧困を根絶するためには、以前のような個人的慈善行為では叶わないと考えるようになっていました。
貧困の根本的原因は経済組織そのものに深く根をおろしており、政治的および産業的組織全体が変わらねばと考えます。
そして彼は、全社会を覚醒させるためには、労働組合と政治的行動を展開すべきと、次のように述べています。
「もし今日の貧民階級を無くしてしまおうと思えば、今日の慈善主義では不可能である。
慈善主義は常に貧民を増加さす傾向のあることは、古代の宗教慈善が物乞いを作ったことや、英国の救貧法が失敗したことをもっても証明することが出来る。
それで私は、救済思想の徹底はどうしても、労働問題の根底に突き当たらなければならぬと思う。
それには、社会主義、社会改良主義、国家社会主義といったような各種の主義、主張もあるが、日本の今日の現状に照らして、労働組合の健全なる発達をなさしめるより急務はないと考える」

(つづく)