大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

賀川豊彦伝(3)

2015年02月02日 | 労働者福祉
中東の過激派に身柄を拘束されていた後藤健二さんが殺害された事件で日本中が大騒ぎ。
安倍総理は「日本がテロに屈することはない。彼らにその罪を償わせる」と意気軒昂。
なおかつ自衛隊による在外邦人の救出にも言及した。
「国民の命、安全を守るのは政府の責任。その最高責任者は私」といよいよ熱がこもる。

人間の命は尊い、それは誰しもが否定しない。
同時に人の命に軽重もない。
同じ新聞紙上にふたつの殺人事件が掲載されていた。
「小5女児遺棄容疑」と「自宅放火し母殺害」のふたつだが、後藤さんに比べてあまりに小さな記事扱いだった。
子殺し」「親殺し」は後を絶たない事件だし、自殺者はまだまだ年間2万7千人を超えている。
安倍総理の「国民の命、安全を守るのは政府の責任」の言葉が軽く聞こえ、後藤さんの母親の「憎悪の連鎖にしてはならない」の言葉が重く響く。

さて「賀川豊彦伝」の続きです。

東京帝国大学へ行くことを断った賀川は世話になっていた叔父の家から追い出されます。
明治学院に入学するまでの期間を宣教師の邸で暮らしたのち、明治学院高等部神学予科に入学した賀川は学生寮に住むこととなります。
豊彦は異常な読書ぶりで他の学生を驚かせます。
彼の読書は、専門分野というようなものは全くなく、あえていうならば西洋の知識と文化の全分野にわたっていました。
とうとう彼は明治学院の図書館の本を全部読んでしまいます。

マルクス主義もまた彼の心を捉えました。
のちに彼は日本におけるマルキストと闘いましたが、その時にも問題点を指摘するのにしばしばマルクスを引用しています。
平和主義者としての賀川は、マルキストの暴力肯定と労働者階級の悲惨の克服手段としての階級闘争を拒否していたのです。
マルクスの哲学が置き去りにしていた人間活動の宗教的次元、内面における変化というものがなければいけないのだと、彼は確信していました。
平和主義者賀川は、「世界平和論」を徳島毎日新聞に連載するなどして、辛辣な帝国主義批判を行いました。
1900年制定された治安警察法により賀川は何回も監視を受け、警察の尋問を受けました。
この法律は、その後の30年、日本が軍国主義の道を歩む過程で折々に強化されていきます。

1907年3月、明治学院予科を卒業したのち、彼は9月に新設される神戸神学校に入学することを決心します。
入学前に、岡崎教会および長尾巻牧師の豊橋協会にて伝道を手伝いますが、結核のため発熱喀血し病の床につきます。
この病中、彼は神秘的な臨死体験をし、その体験で彼は神の臨在を感じます。
転地療養のため海辺の孤独な小屋で療養しながら賀川は小説「死線を越えて」を執筆します。
健康状態が良くなって神戸の神学校での勉強を再開して間もなく、再度病状が悪化して危篤状態に陥ります。
この2回目の臨死体験で、賀川ははっきりと神と契約を結んだといいます。

この経験を如実に述べた小説が往年のベストセラー「死線を越えて」です。

(つづく)