大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

賀川豊彦伝(11)

2015年02月18日 | 労働者福祉
集団的自衛権の行使についてまた拡大解釈がなされそうな雰囲気です。
あれだけ大騒ぎして閣議決定したのに、なぜか今回は公明党もすんなりと容認するような報道すらもあります。
与党協議で議論された事例は8つでした。
1、日本人輸送中のアメリカ輸送艦の防護
2、武力攻撃を受けている米艦防護
3、周辺事態等における強制的な船舶検査
4、米国に向け日本上空を横切る弾道ミサイル迎撃
5、弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護
6、アメリカ本土が武力攻撃を受け、日本周辺で作戦を行う米艦防護
7、国際的な機雷掃海活動への参加
8、民間船舶の国際共同護衛
しかし今回提出されるであろう恒久法では、米軍以外の他国軍隊も支援対象にすることで政府内は合意されているというではありませんか。
まさに入口で嘘をついて承認させてから法を広げていくという、「労働者派遣法」や「残業代ゼロ法案」と同様の姑息な手の内にはうんざりします。
正々堂々とした論戦を期待します。

さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

1923年9月1日、東京で起こった大地震によって大火災が起き、10万人の人が死に、数十万人以上の人が家を失いました。
賀川らは直ちに関東大震災の救援に取り掛かります。
この大震災は日本人を団結させました。
労働紛争の相手側である川崎造船所も、上海行の船を急遽変更し、積荷を救援物資に積み替えて賀川ら労働者のリーダーを乗せて東京湾へ向かいました。
賀川が横浜と東京とで目撃した廃墟は、スラム街の地獄以上に恐ろしいものでした。
賀川はスラムに注いでいたのと同じ猛烈な精力を傾けて救援活動にあたりました。
破壊された都市の被害状況を確認すると彼は神戸に帰ります。
救援活動に必要なお金を捧げるためです。
いたるところで講演したり、自分の大切な蔵書を売ったりして目処をつけると、妻と赤ん坊を伴って寝具類を持って東京に戻ります。
東京でも彼は「求めなさい。そうすれば与えられます」という聖書の命令に従って、多くの人に援助を求めます。
何ヶ月も経たないうちに、彼は、粗末なバラックの建物の中で、基督教産業青年会(YMCA)を始める手伝いをします。
このYMCAは、直ぐにこの地域の人々の生活支援のための多様なプログラムをスタートさせました。

賀川の名声はますます大きくなり、彼を危険人物として見ていた政府も彼を無視できなくなりました。
問題に通じており組織能力の高い賀川豊彦と鈴木文治は、首相が議長を務める110人の諮問委員からなる、新設の帝国経済会議の議員に任命されます。
賀川は社会改革のための議案通過を運動するのに極めて良い立場に立ち、成年男子普通選挙権法の制定、健康保険法の可決、旧工場法の修正などが陽の目を見ました。

日本と西欧の関係悪化が広がることを憂いた賀川は、最悪の戦争回避に向けて行動します。
事実、キリスト教平和主義者としての国際的名声が高まっていましたから、日本と西欧間に調和をもたらす点で、彼は重要な役割を果たしました。
賀川は、日本と日本人とを他の国々に説明することによって日本に対する好意を得ようと考えたのです。
1924年11月、全米大学連盟の招きにより賀川は講演旅行に旅立ちます。
賀川は数多くの都市で講演し、1925年6月、長期間の旅から帰国します。

(つづく)