大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

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賀川豊彦伝(5)

2015年02月04日 | 労働者福祉
今年は戦後70年の節目の年。
あの不幸な戦争はなぜ起こったのか、その結果、日本国民はどこへ追い込まれていったのか。
今年は過去から学び未来への指針を考える大切な1年です。

賀川豊彦は生きている最中に3つの戦争を体験しています。
10代で日露戦争を、20代で第1次世界大戦を、30代では関東大震災を、40代で金融恐慌を、そして50代で第2次世界大戦を経験します。
国民の悲惨な状況は戦争の結果であり、その戦争がなぜ起こったのかをも、賀川の人生はリアルに教えてくれます。


さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

賀川は神学校の授業に出席しない時は、スラムの朝の巡回をして病人を助け、口喧嘩を解決したり、飢えた人に食物を運んだりしました。
地元の人々から尊敬を受け「先生」と呼ばれるようになります。
賀川は自宅で学校を開き、彼の生徒たちが働きに行く前の早朝に、国語や算数その他基礎的な科目を教えました。
また大人のためのもうひとつの学校として、夕食後、8時くらいまでアルコール依存症患者のために聖書の勉強も始めます。

栄養不良もスラムにおける最悪の問題のひとつです。
賀川は1912年、協同組合方式の一膳飯屋「天国屋」をつくります。
しかしながらこの事業は失敗します。
この協同組合の失敗は、協同組合の理念について彼を失望させることはなく、管理の重要性について幾つかの反省点を彼に与え、後々の事業の参考となります。

1913年、賀川は、彼を助けて熱心に活動する女性「ハル」と結婚します。
ハルは誰にもまして賀川のグループを支え、貧しい人々の中で働きを進めていく中心人物になります。

1914年8月、第一次世界大戦の勃発直後に、賀川は米国のプリンストン大学および神学校に留学します。
4年の間に尊敬されかつ世間の人に知られる人となったスラムを離れ、また心から愛する妻と離ればなれになっての旅立ちでした。
プリンストンでの落ち着いた研究生活は速やかに過ぎ去り、1916年5月に神学士の学士号を受けて卒業します。
彼はその秋にシカゴ大学に入学するつもりでしたが、その間にニューヨークのスラムの研究をします。
そこには日本と同様のスラム街がありました。
そこで賀川は通りを行進する多国籍の6万人のデモを目撃します。
この集団の光景は労働者の連帯の力を彼に感じさせ、日本に帰ったら労働組合運動を進めようという決意を強めます。

(つづく)