大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

賀川豊彦伝(4)

2015年02月03日 | 労働者福祉
賀川と社会運動との関わりは全分野にわたっています。
その入口は神戸のスラムに入り込み、社会の底辺に生きる貧しい人々と暮らすことからでした。
その体験から彼は「貧民心理の研究」なる本を著しています。
貧民窟の状況に賀川は大きなショックを受けました。
当時の報告書には信じられない「貰い子殺し」の話が出てきます。
『裕福な「由緒正しい」家で事情のある子どもが生まれると、その子どもはお金をつけて養子に出されるそうです。
しかしその子は最初に養子に出された家で育てられるわけではなく、そこでいくらかのお金が「ピンはね」された後、また次の家へ養子に出されるそうです。
このようなことが繰り返され、最後は預かり金五円で貧民窟に子どもが出されてくるそうです。
貧民窟の「女」は、わずかばかりのお金を目当てに子どもを貰うのですが、子どもを育てる気は初めから全くなく、子どもに乳を与えることもせずにお粥ばかりを食べさせて、「栄養不良」で死に至らしめるというのです…』
みな、お金が欲しいものだから、貰い子をして助けてやると言いながら、栄養失調で殺してしまうわけですね。

「貧民心理の研究」に掲載されているスラムの写真です。

わずか100年ほど前の日本はこんな状況だったんですね。


さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

21歳になった賀川豊彦は、本や衣服を詰めた行李を積んだ荷車を引いて、日本最大スラムのひとつであった神戸新川地区に向かいました。
新川の状況はひどいもので、500メートル四方に2千ものバラックが建ち、1500人もの人が住んでいました。
賀川は暗い小部屋がふたつしかない、みすぼらしい、しっくい壁の家に住みつきます。
その裏には共同のトイレ・洗面所・台所があり、クズ拾い、売春斡旋業者、売春婦、車夫、病人や、失業者たちとともに使っていました。
スラムでの彼の同室者は、栄養失調と皮膚病にかかっているアルコール依存症や梅毒患者、刑務所帰りの元殺人犯でした。
彼はキリストの犠牲を、他者への奉仕の最高の模範と考え、それまでも自己犠牲を大胆に実践していました。
そんな彼を知る人々も、賀川が新川のスラムに献身的に飛び込んだことには、さらに驚かされます。
絶望しそうになった時も再々あり、自分の手にあまると感じる時も度々ありました。
やがてこの貧困の中で生み出された不信、薄情、人間性の喪失が、想像していた以上に彼の活動を難しくすることを悟るようになります。
そして、そのような環境において、人間が落ち込みうる堕落がどれほど深いものかも学びます。
世話をする同室者から皮膚炎をうつされ、不眠症に悩む元殺人犯は賀川が手を握っていなければ眠れませんでした。
そうまでして貧しい人々に仕えても、彼らの暴力、粗野、無知の領域から逃れることはできません。
短刀を抜いた男から金を要求され、ピストルを振り回され、家に火をつけられ、酔っ払いに殴られて前歯を折られたりもしました。
それでもなお賀川は聖書の命令に従おうと、より一層努力することで、これらの困難に立ち向かいました。
ひとりの物乞いがやってきて「シャツが欲しい」とねだってきます。
彼がシャツを渡すと、さらに上着とズボンを求めてきました。
賀川はこれも渡してしまい、彼の来ているものは全部なくなります。
それで彼は、売春婦であった隣の女から鮮紅色の模様のある着物を借りて着ていました。
スラムでは、男たちが女の着物を着ていることは希ではなかったといいますが、神学校にこの女の着物で顔を出した時にはセンセーションを起こしたに違いありません。
賀川は定期的にスラムの巡回をし始め、病気の人々を訪問し、彼らが薬を得るのを手助けし、医者の訪問を手配し、病人の床ずれを洗ってやり、普通の人なら入ろうと考えもしないような不潔な小屋を掃除したりしました。
何回も挫折感を味わい苦しみながらも、彼の評判は日増しに高まっていきました。

(つづく)