大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

賀川豊彦伝(10)

2015年02月17日 | 労働者福祉
明治の時代を生きた人々は実に面白い。
賀川豊彦を学ぶうちにこれまで知らなかったたくさんの人々に出会いました。
斎藤緑雨もその一人で、明治の小説家・評論家であり、ニヒルな毒舌家でもあります。
数多い緑雨の名言から3つ拾ってみました。

馬鹿が馬鹿を馬鹿といえば、馬鹿が馬鹿を馬鹿だという。
馬鹿で持ったる我が世なり。

拍手喝采は人を愚にするの道なり。
努めて拍手せよ、努めて喝采せよ。
彼おのずから倒れん。

「寒い晩だな」「寒い晩です」
妻の慰めとは、まさにかくの如きなり。


さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

当時の農業は小作人の労働の犠牲の上に成り立っていました。
多くの地主は小作人から搾り取るばかりで、地域社会の面倒を見るといった古くからある家父長主義的な思考を持たない不在地主が増えていました。
これら不在地主に対しての憤慨は高まっており、小作人組合が結成され、対地主争議が勃発していました。
賀川は1921年に日本農民組合を設立しますが、その初代組合長として農業を学んだ経験を持つ牧師「杉山元次郎」を見出します。
この杉山は後に衆院議員に7回当選し、1955年には衆議院副議長になる人物です。
賀川は組織化のため全国縦断の講演旅行に飛び歩きますが、その講演会には千人以上の農民が、ある人々は12キロも歩いて話を聞きにやってきたそうです。
1923年には数万の会員と百を超える支部に発展していきました。
農民は非常に具体的な講義のプログラムや農民学校に惹きつけられていました。
数年をかけて賀川は、何千もの農民に実用的なまた宗教的な訓練を施すために「農民福音学校」と農村センターを設立していきます。
富士山の壮大な眺めを持つ御殿場には、福音学校と豚肉処理設備を持つ重要な農村センターがつくられました。

この畜産加工技術から今日の「高崎ハム」が産まれたのです。
賀川の農村のための長期的計画は、小作法、地代軽減に始まり、次いで農民に貸付金、農機具、市場、また近代農業発達によるあらゆる便宜を与える経済政策などの、一連の農村改革でした。
現在ある農業協同組合は、農村地帯にこれを達成するための手段でした。

賀川は組織作りをし、講演をし、著作活動を続けました。
この期間にも彼は大阪で労働学校設立に尽力し、1922年開校、成功裡のうちに運営されていきます。
また被差別民を助ける仕事も始めていきました。
政治的には、議会制民主主義を通して、商業組合や消費組合等、社会改革を徐々に推し進める努力を続けていました。
それが資本主義による悲惨さから国を救い、政治的経済的平等の社会制度に導く最も実際的な道であると信じていたからです。
しかしこの希望は、右翼政府と軍部の圧力や、労働者層の分裂によって打ち砕かれていきます。
政府は数年のうちに民主主義に対する彼の夢を打ち砕いただけでなく、1930年代には日本を満州と中国との戦争に導き、遂には第2次世界大戦へ突入していきました。

(つづく)

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