大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

賀川豊彦伝(8)

2015年02月10日 | 労働者福祉

中日新聞(本日朝刊)からの抜粋記事です。
いつも言うように、日本はアメリカの後ろを歩んでいます。
それは一見すると自らの意志のように見えますが、そうではありません。
話題になる雇用規制改革もそうですし、農協改革もそうですし、経団連の経営改革もそうです。
主権者である国民が“我が事以外”は無関心という罠にハマっているうちは、日本の未来は現在のアメリカの姿です。

大きな時代の流れが労働者にとって悪い方に向かっている時に、最も大事なのは労働側トップリーダーの指導力と対話力です。
労働者自主福祉運動を語るときに出てくる根本的な問題があります。
「なぜ、未組織労働者や社会的弱者にまで、運動を拡大させなければならないのか?」
ここのところが真から理解できないと実践には結びつきません。
「二宮尊徳」も「ガンジー」も「ケインズ」も「賀川豊彦」も、自らの生涯を通してその答えを私たちに教えています。

さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

スラム解放運動の次に賀川が関係を持つことになったのは労働運動でした。
その実践的・理論的なリーダーとして活躍した賀川は、後に友愛会の1918年総会で新綱領とでもいうべき「宣言」を起草します。
この「宣言」で特に注目するのは「国際労働九原則」を持ち込んでいることです。
今では当たり前のようになっている「労働の非商品化」「結社の自由」「最低賃金制」「八時間労働」「男女の同一賃金」などの内容です。
これらがそれからの友愛会の中心目標となっていきます。

1919年、賀川は鈴木文次と協力して「友愛会関西労働同盟会」を結成し、理事長に就任します。
労働者のための正義を求める賀川の訴えは大衆の中に広まっていきます。
日本経済の好景気の恩恵に与れないという事実に大衆の不満は沸騰点に達しようとしていました。
生活費は高騰し、米騒動が全国各地で起こり、寺内内閣は総辞職に追い込まれます。
神戸では2万人の暴徒が商店や新聞社に放火し、米屋や酒屋を襲って略奪しました。
この混乱で賀川らは闘争的性格を強め、鈴木文治や友愛会指導部内の穏健派に対して、明確な立場を取るように圧力をかけます。
人間の尊重を主張する彼は、「少なくとも資本家が馬に与えるのと同様」の扱いを人々に与えるよう要求します。
長時間労働や最低限の生活しかできない賃金、劣悪かつ危険な労働環境に激しく抗議しました。
常に多感で激情的であった賀川は、自分が目の当たりにした悲惨に怒り、人々を虐げつつ、その悲惨から資本家に富を得させる経済システムに怒りを覚えたのです。
彼の厳しい批判は友愛会だけでなく、資本家階級に与する組織された教会にまで及びました。
しかしこの怒りは自制されたものであり、マルクス主義者たちの暴力革命への呼びかけには決して参加しませんでした。
彼は道徳的にも、戦術的理由からも、社会問題を解決する手段として暴力を用いることを拒んだのです。

賀川は、実業界と結びつき、労使の調和を強調する保守派とは意見を異にしました。
また階級闘争のマルクス主義者たちとも一線を画しました。
鈴木文次が穏健な改革者だとすれば、賀川は穏健な革命家でした。
右翼の全体主義と賀川の追求する民主主義の間でもその溝は深まるばかりでした。
現実的な賀川は、組合活動において微妙なバランスを取らなければならないと考えました。
しかし保守派からはすでに「アカ」のレッテルを貼られ、日本人キリスト者らには「悪魔」と非難されていました。
無政府主義者には、賀川の議会主義とキリスト教は紳士的すぎて、妥協的すぎると批判されていました。
方々から反発を受けながらも、賀川は活発に労働運動を続けました。

平和主義者である賀川のストライキ観に関して面白いエピソードがあります。
賀川は穏健派とは異なり、「資本家を教育する手段としてストライキはある」という「資本家に対する無抵抗的、断食的教育手段」としてのストライキ観を持っていました。
こういう賀川のストライキ観に対してアナーキストの大杉栄は、「ストライキは喧嘩だ。かわいそうな敵を目覚ましてやるとか教えてやるかという生易しいものではダメだ」と辛辣に批判しました。
右からも左からも敬遠された賀川の姿です。
賀川の労働運動観にも彼の理想主義は色濃く現れており、労働運動を通じて人間を成長させ、段々と社会を変えていくという「成長の法則」が唱えられていました。

(つづく)