大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

賀川豊彦伝(12)

2015年02月24日 | 労働者福祉
昨日東京に出かけたら、たちまちのうちに鼻炎に苦しみ始めました。
気にすると悪化するのでキョロキョロしていましたら、レンタル電動サイクルの駐輪場(サイクルポート)を見つけました。
千代田区のコミュニティサイクル実証実験とのこと、ちょっと興味が湧いて利用ガイドを貰ってきました。
区内には28箇所のサイクルポートがあり、どこでも貸出・返却ができます。
「ICカード」や「おサイフ携帯」を鍵として利用でき、月額会員で登録すれば月1000円で30分以内なら何度利用しても無料です。
坂道が少なくて自転車利用率の高い静岡市にも、こんな仕組みがあるといいですね。
このシステムを導入して中心部には自動車乗り入れ禁止にしてみたら素敵でしょうね。



さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

日本に帰国してから賀川の公的な生活も再開しますが、軍国主義者や当局からは不興を買っていました。
平和主義者の彼は、共産主義者を含む、日本の労働階級のあらゆる集団を結集するような新しい政党を考え出す努力を続けました。
しかし1925年に日本労働者連盟が二つの党派に分裂したことから、彼が抱いていた統一戦線の夢を脅かし始めました。
彼と杉山元次郎とは、強力な政党の必要条件は労働組合に加入している都市労働者と農村労働者間の一致、そして労働者諸団体間の一致であることを確信していました。
そのような一致がなければ、苦闘している労働者や農民の政治力は絶望的なまでに霧散してしまうだろうとも考えていました。
大苦労の末、ついに1925年、都市の人々と農村の人々を統一した「農民労働党」を結成します。
しかし内務省はこの新党を、急進的すぎるという理由で禁止します。
賀川と組合指導者たちは、これにひるまず、共産主義グループや被差別民グループを入れないで、名称を逆に変えて「労働農民党」として新党を結成します。
政府は、今回は抑圧的行動をとりませんでした。
しかし賀川と杉山はこの新党を初期の目的通り、共産主義者や被差別民などを入党させるよう企てたので、日本労働者連盟は自らの新党として「社会民衆党」を結成します。
その後日本の労働運動は、政治運動によってバラバラに解散していきます。

賀川は普通選挙権が認められるようになったにもかかわらず、労働運動の分裂によって、日本の諸問題に対する政治的解決策が成せないことに失望し、次第にキリスト教伝道と、協同組合とに心を傾けていきます。

賀川は、多くのプロジェクトにその財力と精力を注ぎますが、その中で、最もインパクトを日本に与えたのは、消費者と農民のための協同組合運動でした。
日本生活協同組合連合会は、賀川らによって1951年に設立されました。
最も成功した灘・神戸協同組合は、最初二つの小さな小売組合として出発しました。
現在は「コープこうべ」となり、世界最大の単位生協となっています。
協同組合の発展は、経済改革の主な要素であるだけでなく、世界平和の鍵になるものだと賀川は信じ、熱心に説きました。
協同組合は組合員を民主的に管理し、「収益」は少数の経営者に集中することなく、組合員に還元されるので、経済改革の手段になります。
賀川は協同組合を、日本における貧困との闘いや、経済の人間化のための手段と考えていたのです。
長期的には、世界経済を協同組合的基盤に立つものに転換することを彼は真剣に望んでいました。

(つづく)