大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

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賀川豊彦伝(7)

2015年02月09日 | 労働者福祉
今日はK労組語り部育成ゼミでした。
早いものでもう2回目ですから、うかうかしていると月日に追い越されてしまいます。
今回の学習テーマは「労働運動」、1897年の「労働組合期成会」から1989年の「連合」誕生までを、Q&A交えて40分間で駆け抜けました。
もちろん足りぬところはゼミ生の自己学習に頼るところですが、Workers Libraryにもいい資料がたくさんあります。
これは「基本的人権と労働組合」の歴史チャートです。

みなさんもご一読ください。

さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

この新しい政治的アプローチで賀川は革命を求めたわけではありません。
彼は平和主義者としても、現存秩序を暴力的に覆すことを唱える人々に与することはできませんでした。
労働者自らの力で賃金や労働条件を改善し、職場を越えて広く社会を改革する手段としての力を持つものとして、労働組合に希望を託したのです。
労働組合に加えて、協同組合の力も活用して労働者と消費者に産業の所有権と支配力を与えることにより、また少数者に富を集中させるよりも彼らに利益分を再配分することにより、日本経済を改革できると信じていました。
まさに産業民主主義の考え方です。

そのためには法の裏付けを必要とするため、労働者も参加できる普通選挙法の制定が必要でした。
これは300円以上を納税する日本人男性にのみ与えられていた投票権を、25歳以上の男性すべてに与えようとする運動です。
労働組合、協同組合および普通選挙権こそ、彼が、次の5年間にわたって多大な精力とカリスマ的な指導力を投入した3つの分野でした。

しかし賀川は、だからといってスラムにおける慈善事業を後退させることはありませんでした。
彼はさまざまなプログラムを継続し、貧しい労働者の子どもたちのために保育所と幼稚園を開きました。
病気が最大の障害であることを知り、実業家の助けを借りて診療所も開きました。

協同組合で設立した歯ブラシ工場は、労働者の飲酒と病気による欠勤や、コソ泥により赤字が続き閉鎖されますが、協同職業雇用所(職業紹介事業)はうまくいきました。
治安維持法などの圧制的な法律が労働組合を組織することを困難にしていたにもかかわらず、労働者たちは労働条件の改善を要求し始め、ストライキも増加していきます。
警察の弾圧はますます厳しくなり、組合を組織するのに難しくなりますが、1912年に鈴木文治により「友愛会」が創立されます。
鈴木は弾圧から逃れるために、友愛会をどちらかといえば教育、互助会的な組織にしていきます。
講演、労働者のための個人相談や法律相談、また貯蓄部門を通し、友愛会は会員への個人的財政への支援をしたり、貯蓄することを勧めました。
労働組合の価値は労働者の生活を向上させ、かつ労使間の秩序ある関係を育てるための方法であるとして、賀川はこれを労働者や広く社会に説得して回りました。
労働者の間で不満が強まってくると、友愛会は次第に闘争的になっていきました。

(つづく)