大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

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賀川豊彦伝(14)

2015年02月27日 | 労働者福祉
賀川豊彦とケインズの考え方にはいくつもの共通点があります。
賀川は「通貨は愛である」といい、ケインズは「貨幣愛」と言っています。

通貨というものは、商品でないはずなのにいつのまにか商品になって、儲けだけを中心に、巨額の通貨が毎日市場を動き回ってしまいます。
そうした為替相場の変動ということで、あらゆる国の経済不安とか、あるいは経済・政治の混乱が起こり、通貨の価値の変動によって大きく国民の生活に影響を及ぼしてきます。
通貨はこれでいいのだろうか?無形の価値とかモラルというものを経済・金融の中に取り戻さなければ、次世代の子供たちや青少年たちが危機の中にさらされてしまいます。
「これは明らかに社会の思想の貧困、金融政策のまずさだ」と二人は同様に考えていました。
ふたりに言わせれば、投機的商品として利潤のみを追求する通貨は通貨と呼べないのです。
まさしく現代に通用する言葉です。


さて「賀川豊彦伝」のつづきです。

西欧における賀川の名声は新たな高みに達します。
1935年12月、彼は3回目の世界講演旅行を計画します。
引っ張りだこの賀川講演は、5年先まで予約で埋められるほどでした。
しかし一方で反対運動をする者たちも多くいました。
入港したサンフランシスコでは、途方もない賞賛と非難で迎えられますが、賀川は重い眼病にかかっていたため、感染防止を理由に拘留センターに保護されてしまいます。
彼を待ちわびていた支援者たちは政府に働きかけて、とうとうルーズベルト大統領自身までをも動かし、条件付きで賀川の7ヶ月滞在を許可します。
賀川は全米各地で協同組合経済による非暴力革命のメッセージを訴え続けました。
経済が戦争の根本原因であると主張し、世界貿易安定のために単一通貨体制に基づく国際的協同組合銀行構想を論じました。

成功を収めた米国伝道旅行を終えて、彼は1936年7月、ヨーロッパに向けて出航します。
秋には帰国しますが、日本では軍国主義が拡大し、警察国家が統制を厳しくし、どんどんと恐ろしい時代へ突入していきました。
翌1937年7月7日に起こった「盧溝橋事件」は、国家全体を右へと急激に傾かせ、戦争へと拍車をかけていきます。
賀川が設立するのに大苦労してきた労働組合や農民組合、また平和の福音を説教してきたキリスト教会の多くも、軍部の方策に逆らえず同調していきます。
自己防衛のためでもあり、ひたすらな愛国心と、国中の異常な心理状態の結果でもありました。
平和主義者で反抗者でもある賀川ですら体制に順応しようとしていました。
それは体制が彼に自由を認めなくなっていたためでもあります。
それでも賀川は欧米の反日感情を和らげたいと願っていましたから、政府は平和主義者として知られている彼を慈善大使として活用しました。
1938年にはインドで開催された世界宣教大会に講師として招かれ、翌年にはガンジーとの対談も実現します。
しかし、そうした努力もむなしく終わります。
教会は国の宗教管理部門の支配下に置かれ、日本労働同盟も解散し政府が公的に支援する組合に合併させられます。
賀川自身は教会での非暴力の説教を咎められ逮捕されてしまいます。

1941年3月、戦争を避ける最後の試みとして、賀川は日本基督教聯盟の訪米平和使節団としてアメリカに渡ります。
米国を旅行している間、彼は300回以上も講演をして回りましたが、戦雲が近づいてきたため8月帰国の途につきます。

(つづく)

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