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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

関宿城攻撃の拠点とした山王山砦は? ―東昌寺―

2025年04月11日 | 城・館の部屋
北条氏の関宿城攻め(千葉県野田市)は3次あった。
第1次は、太田氏資らを先勢として攻撃を仕掛けたが、
「野伏」の活躍や関宿城主簗田氏の巧みな戦略によって落とすことができなかった。

そこで、北条氏は栗橋城主野田氏を退去させ、北条氏照を入城させる。
同城を拠点とし、また関宿城攻略のための“山王山”と“不動山”という2つの砦を築造するのである。

不動山は不明だが、山王山は茨城県五霞町山王山が比定される。
具体的には、同地の東昌寺であった可能性がある。
同寺は簗田満助の菩提寺として創建されたという。
(現在地よりも関宿城に近い場所だったらしい)
簗田持助が寄進した梵鐘が現存する古刹である。

境内には、“山王山砦”とおぼしきものが散見される。
山門前には窪地と土の高まりがある。
これは堀と土塁の名残りだろうか。
また、裏手にも土塁のような土の高まりが確認される。
ここが北条氏の築いた山王山砦としたいところだが、断言できない。

2つの砦を築き、関宿城攻略に本腰を入れたところ、
武田信玄が今川氏を攻撃し、三国同盟が解消される。
北条氏は急遽上杉謙信と手を結ぶことになり、
越相同盟の成立にあたって2つの砦を破却した。
つまり、関宿城は北条氏の攻撃対象から解消され、砦は禊のごとく壊されたのだった。

越相同盟はすぐに破綻する。
関宿城は再び攻撃対象となり、
山王山砦と不動山砦はおそらく軍事施設として再利用されただろう。

関宿城は天正2年(1574)閏11月に開城する。
簗田氏は水海城に退去し、代わりに北条氏が入った。
ここから北関東への勢力伸長の足掛かりとなり、古河公方足利氏権力の包摂化も加速していくのだった。

幕末まで残った関宿城だったが、
城の遺構はほんの一部を除いて、あとかたもなく消えている。
東昌寺の法灯はいまも続いている。
境内に見える窪地や土の高まりが軍事遺構とすれば、
山王山砦もその一部がいまに伝わっていることになる。

東昌寺は、関宿城主牧野成貞の妻から寄進されたと伝わる山門があり、
境内は厳かな空気に包まれている。
本堂に施されているのは、簗田氏の家紋である水葵三本立ち。
関東統一を目指した北条氏は、
関宿城を前にしてどのような世を夢見ていたのだろうか。




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