小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

雑念、迷妄をととのえるべく

2018年12月13日 | 日記

 

何事にも好奇心旺盛でありたい。小生のモットーでもあるが、余りにも興趣感ずるもの多く、なんともはや迷妄の途へ・・。
ブログなぞ書こうと思っても、その悪癖はとどまらない。記事のネタを仕込むと、こう書くべきか、あの切り口で展開するかなどで迷い、結局のところ書けず仕舞い。

『ルーベンス展』のこと、映画『ボヘミアン・ラプソディ』とTVドラマ『ミスター・ロボット』、読了した本では『人間という仕事』、『知恵の樹』、『宗教国家アメリカのふしぎな論理』、『ろう者の祈り』など種々ある。
ちょっとした出会いや日常の些事、書きたいことは、次から次へと生成するのだが、日を追うごとにモチベーションが減衰してゆく。

「気」が弱っている(歯医者行ったのに、痛みが続いている)。年齢によるものか、精神力のなさなのか。いずれにしても、雑念にとらわれ迷妄している状態で、まあ精神の危機には至らないが、答えの出ない「負」の力に支配されたのか・・。(いやいや、年賀状の最終仕込み、プレ大掃除の窓ふき、体力維持の散歩、時に食事つくりと、日常のことは妻に叱咤されながらも励んでいる)

以前、帚木蓬生の『ネガティブ・ケイパビリティ』という本の感想文を書いたが、自身がこうした「負」の状態に陥ったとしても、臆することなく耐えなくてはならない。問題点を洗い出し、ポジティブに解決策を講じていくのは避ける。変にあがくと、かえって功薄いのだそう。ここはじっくり心を整え、構えるしかない。

そのブログ記事が、10日ほど前のある日、異様なほどのアクセス数を記録して驚いた。何故だか分からないが、テレビかラジオで取り上げられたのだろうか、小生のブログを結構な人が読んでくれたらしい。こういうことを調べるとしたら、「エゴサーチ」とかいう技を使うのだろうか・・。

話は変わる。

前回はスピノザの『エチカ』についてふれたが、今週のそれは「本質」というテーマで、「自分という存在を維持する力」についての内容だった。ある種、ネガティブ・ケイパビリティにも通じる考え方で、自然界に存在するものは、完全・不完全の区別もなく、ましてそれ自体に善悪もない。だが、それぞれの個体には「ある傾向をもつ力」があるとし、スピノザはそれを「コナトゥス」と名づけた。

現代の、医学や生理学で言うところの「恒常性」(ホメオスタシス)の原理だということだ。

要するに「私たちは常にさまざまな刺激を受けて生きているわけですから、うまく生きていくためには、自分のコナトゥスの性質を知ることがとても大切になります」と、國分功一郎はいい、スピノザはそれこそが人間にとっての「本性」「本質」であるとした。生きていくうえでいろいろな刺激をうけ、「本質」が変化していくこと、そこにスピノザは注目したのだ。

外部からのネガティブな刺激により、人は脆弱な状態に置かれることがある。そこからなんとか脱出していこうとするとき、コナトゥスがはたらき、忘れようとしたり、克服していこうという欲望が生まれる。そういうときにこそ力が増大し、人間は大きな歓びに満たされるという。ただし、そのコナトゥスをいろいろと組み合わせなければならない。要は、「本質」の組合せなのだ。

やはりスピノザは難しい。ただ『エチカ』については、「人間にとっての自由」だけに収斂していく哲学書だという。

年末の忙しい時期に、こんなことを書いていて、まあ、これも自分のなかのコナトゥスが発動しているとしてお目こぼしを願うのみである。

 

▲ ルーベンス展に行った。ギリシャ・ローマ神話とキリスト教美術の、ひとつの到達点をみる思いだった。花や動物はそれぞれのスペシャリストに描かせ、ルーベンスが纏め上げる。絵画をシステムとして捉えたのだろうか。

上野はいま、フェルメールとムンク、そしてルーベンスに燃えている。特にフェルメール展は、1時間30分の時間指定かつ2500円の料金にもかかわらず、公園内を長蛇の列がならぶ。日本人のフェルメール好みは極まる。それにあやかった民間団体(財・日本美術協会)ならではのマーケティング、集客手法もしてやったりか。フェルメールは7+1作品だが、ルーベンスは40作品ほどで大作も多し。どちらに行くか、どちらも行くか、それはあなた次第です。


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