小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

N氏の「思考と形象」

2016年12月05日 | エッセイ・コラム

 

故西野洋のオマージュというべき「西野洋 思考と形象」を手にする。清々しい透徹さ、瑞々しい気品さを感じさせる表紙デザイン。そして、手にしたときの質感が素晴らしい。10人になる制作委員の方々には、まず感謝と称讃をおくりたい。

西野さんによる生前の仕事を見事にまとめ、至高のエッセンスともいうべき純度と強度をもった著作にしていただいた。まさにN氏の魂がのりうつったかのような端正な本である。(以下、西野さんに統一)

タイトルにある「思考と形象」に示されるように西野さんは、ことデザインに関して論理的かつ思弁的に語る人であり、一切の妥協を許さない剛直な感じはあった。今回はじめて、彼がデザインしたもの、書いたもの、制作委員会の方々による評論・エピソードなどを総合的に鑑賞した。同時代人として共感覚の領域が一致するところもあれば、西野さん流の、あまりのスタティックな感性にたじろがされることもあった。一緒に仕事をしたことはなく、彼のデザインの何たるかを語る資格のない私は、この自分のブログにおいて書くことさえおこがましいと自認せざるをえない。

ただ、私から言いたいことは、理論に基づく形式性や論理の到達点としての美意識に、西野さんはそれほど拘泥しなかった人だった。と、傍らで静かに思っていたい。

何故なら、当時は、構造主義からポストモダン、一方で構成主義から伝統回帰、視覚主義とシンタックスなど目眩めく言説が氾濫し、単に広告文を書く私でさえ翻弄される情勢があった。彼が書いたものは本質を穿つものであるが、そうした知の奔流の影響を多少とも感じるのは私だけであろうか。

込み入った話をしたこともあったが、そうした現代思想の言説も知悉した西野さんは、私の拙劣な問題意識にも「そよそよ」とつきあってくれながら、楽しく解きほぐいてくれたのである。

「そよそよ」と書くと、芯のない軽さ、それこそ思考の欠片もない軟弱な議論と受けとられるかもしれない。が、私にとって「そよそよ」とは、西野さん的な「知の受容とスタンス」であり、「ゆっくりと確かめながら共に考えましょう」という思考速度であると受けとってほしい。

たとえば、コピーの可読性は二の次で、全体の構成の美しさだけを鑑みるデザイナーへの私的な恨みを打ち明けたことがある。色々な応答あるいは批評があり、それが「そよそよ」として気持ちよく、やがて「テクストこそが大切」、「テクストこそ美を決定する要素」だ、というような話に収斂されていったと思う。その言に深く同意し、かつ信頼をおいた。逆にこちらの、テクストの作り手の質こそが問われている気がし、エクリチュールの質を高めねばとの思いを強くしたことが甦る。

 

書きたいことは沢山あれど、彼と一緒に仕事した多くの方々から、如何にも知っているかのように書くなと叱責されそうだ。

最後に、CDジャケットのデザインについて。見惚れてしまう、楽曲の音が立ち上がってくるほど綺麗だ。クラシックのもつ比類のない美しさとはこのことだ。私なぞは、その完成度をもつクラシックに未だに近づかない。入ったら最後、出て来れない気がするから・・。

彼の音楽の造詣は恐るべき深く、例の佐村河内何某が世に持てはやされているとき、その音楽は如何にと問うたところ、「マーラーのエピゴーネンに過ぎない」と一刀両断に切った。つまり、今は新垣何某という流行(?)の作曲家のことであるが、西野さんの鑑賞力は今さらながら卓越したものだったと思う。(彼の評価を疑う余地はない、と私は後に確信したのである)

 天国に逝った西野さんへ。未開なるもの、野生なるもの、それらを十全にデザイン・表現できるか否や。西野さんならどうアプローチするか・・。尋ねてみたかった。
 
西野さんを偲ぶためによし、極めたデザインを賞味するにも期限のない本だ。この「思考と形象」の隅々を耽溺すれば、少なくとタイポグラフィックの要諦は若い方にもつかめる筈と信ずる。
 
 
 
 

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