小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

長田弘とボブ・ディラン

2016年12月16日 | エッセイ・コラム

 

詩人長田弘が他界して一年半。彼が亡くなる四日ほど前に全詩作をまとめた本が、そして、やや遅れてタイトルそのもの「最後の詩集」が出版された。また、書評集「本に語らせよ」も去年の8月15日に幻戯書房から出版。これで最後かと思われたが、先月に未収録のエッセイ集「幼年の色、人生の色」が出版された。いずれもみすず書房からである。

このエッセイ集はゆっくり読んでいこうと思っている。「21世紀の『草の葉』」という短いエッセイがあり、ボブ・ディランについて書かれていて、これだけ集中して読んだ。


読んで驚いたことに、2014年のディラン来日のとき、長田弘はお台場のゼップ・ダイバーシティ・トーキョーに行っていたのだ。2時間立ちっぱなしでディランの歌を聴いていたとは凄い。同日であるかどうか知らないが、私もそのライブに行き、涙滲むまでに聴き惚れた。その時の感動を、ブログにも書いたことがある。

長田はすでに病魔に侵されていたはずで、このとき74歳であった。疲れを覚えるのを忘れて、デイランに魅せられたと書いている。

1978年の武道館ライブのときにも長田弘は出かけ、ディランの歌に新鮮かつ衝動的な感動をうけたらしい。私はそれを読んでいないし、彼がディランをそれほどに好きだったということを、初めて知ったくらいだ。

ちなみに長田弘の日々の仕事のなかで愛聴した曲とは。 Like A Rolling Stone 合掌 

 
 さて、「21世紀の『草の葉』」である。長田弘は、「ラブ・アンド・セフト」「モダン・タイムス」「トゥギャザー・スルー・ライフ」「テンペスト」などの、近年のディランのアルバムをもれなく聴いていて、それがアメリカの原風景を歌う『アメリカーナ』にからませて、ディランの音楽を自由に解釈している。

『アメリカーナ』の精神の中核には、19世紀南北戦争の時代に生きたウォルト・ホイットマンがいる。彼の詩集「草の葉」は、英語ではなくアメリカ語を意識した言葉づかいであり、アメリカの自然、地理などと一体となった表現が特長である。ホイットマンの「草の葉」における詩句の表現が、ディランの詩(歌詞)と通底しているという分析も、長田らしい丁寧で的を射たものだった。

『アメリカーナ』はまた、「生きる仕事の歌」つまりワークソングという古い労働歌を継承するもの。これはやがてカントリーソングとなり、ウディ・ガスリーやハンク・ウィリアムズらが吟遊詩人のように歌い、多くのアメリカ人に共感をもって迎えられた。(フォークロアとしてのアイリッシュ・ケルト音楽について長田はふれていない)

デイランは少年のときハンク・ウィリアムズを師とならい、ハンクに自分を重ねて歌づくりを始めたことは、つとに有名。しかし、デイラン自身はいまはもう、「何らかの新しい方法で自分を表現するよりも、自分がいる場所をしっかりしたものにすることが重要だ」と表明し、アメリカ伝統のカントリーミュージックをことさらに強調しない。

 
さて、2012年に発表された傑作「テンペスト」についてふれたい。極めて文学的な薫りが高く、長田弘がいう21世紀の新しい『アメリカーナ』だと言ってもいいかもしれない。
 アルバムの9番目に入っている「テンペスト(嵐)」は、映画「タイタニック」のストーリーをなぞっていく全編約13分の長編詩だ。イングランドの詩歌のソネットのように、耳ざわりのよい歌詞をのせて、沈みゆく船と男女の恋を表現している。これはもうポップスという領域をこえた音楽だ。韻を踏む歌詞、そのリフレーンを積み重ねて、物語を展開させていく。(シェイクスピアを強く意識させる)
 
 
 
Bob Dylan album sampler: Tempest
 
 
テンペスト以降も、新たな楽曲を創り続けるディランの才能、意欲には惜しみない称讃をおくりたい。
長田弘が言うように、デイランは『アメリカーナ』の精神を受け継ぐ傑出した詩人であると、私も確信している。

 

そのディランは正式にノーベル文学賞の授賞を受諾し、式には欠席ながら受賞のスピーチを発表した。

彼はヘミングウェー、カミュ、トーマス・マンなど名だたる文豪に影響を受けたと書いているが、じぶんの曲なり歌詞がノーベル賞に価すると考えたこともなかったという。ただディランの非凡なところは、シェイクスピアを引合いにだして、劇そのものや舞台上で語られるセリフについて、歌詞の創作との親近性、ニュアンスについて書いていた。

戯曲は本になるが、舞台での役者が語る言葉そのものは、その場の空気に溶けこみ消失してしまう。歌われる歌詞は、人々の耳、心に届いたとたんに消えてゆく。紡がれた言葉、文字に記され読み継がれる文学作品の言葉と、その場で消えてゆく歌の言葉とは、受けとめ方がかなり違う、と。デイラン自身は、文学のもつ言葉の力、重みを称讃している。謙虚さを前面に押し出している、そんなディランが素晴らしい。



{番外編}
ディランがノーベル文学賞をとったことで、村上春樹ファンはまたもや失望したことであろう。残念ながら、村上はスウェーデン・アカデミーと相性が悪い。というか、第一候補として押される割には、受賞対象となるべき決定的な作品イメージが希薄だ。ノーベル文学賞というと、時代精神を反映した大作とか民族や戦争、最近では環境や社会問題などの、いわゆるビッグテーマに取り組む作家・作品から選ばれている。
最近、「苦海浄土」を書いた石牟礼道子が、文学賞の候補として有力視されてきているらしいが、さもありなんと私は思う。

村上春樹は、自己のアイデンティティを確認するとか、人間関係(家族以外の他者)を追求してゆくような、極めてパーソナルな領域だけを物語の核に設定している。簡単に言えば「自分さがし」「居場所さがし(巡礼)」で、それは性や年齢の差がない普遍的なテーマでもある。もちろん全世界の若者たちにとって共通の、かつ切実なテーマでもあり、言語・宗教・生活習慣の違いを超えて、誰もがすんなりと村上作品に入っていけるだろう。たとえば中国人であろうと、イタリア人、或いはチリ人でも、若者たちの感覚、問題意識にはほとんど差異はない。このグローバルな時代において、村上ワールドこそ、世界中の若者たちが違和感なく、ストレートに共感できる物語なのだ。
 
自分の居場所、自分自身を探すというテーマは、フィッツジェラルドやサリンジャーも同じ。民族色は色濃いが、カフカもまた、ある意味じぶんの居場所を見つけるために、存在(民族)の不条理性を追求した作家だった。
彼らのようなスタイルの作家を考えると、スウェーデン・アカデミー主催のノーベル文学賞はそれほど似つかわしいと思えない。(成熟した人間には、「自分さがし」はどうでもいい問題となる)
なぜそんなに村上ファンはノーベル賞にこだわるのか。受賞すると読みたくなる人と、受賞すると読みたくなくなる人との、その存在を分析する方が面白いと思うが・・。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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